◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 640」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 640」

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 ≪(承前)条約改正への取り組みは、早くも、明冶維新成立直後(正確には慶応四年=一八六八)の一月十五日、動き始める。

 

 

この時、詔勅をもって「これまで幕府が取り結んだ条約の中には、弊害のあるものもあるので改正したい」と声明して、各国にその意向を通告したが、相手にされなかった。

 明治四年(一八七一)の岩倉使節団の外遊の目的も、ただの海外視察ではなく、条約改定にあった。

 

 

それは、安政五年(一八五八)の日米修好条約に、明治五年には条約改正の交渉ができるという規定かあったからである。

 

 

しかし、外遊の結果、条約改正はそんなに容易にできるものではないということか明らかになる≫

維新直後であり、国家体制がまだ完全に確立していなかったとはいえ、新国家を支える要人たちの活動には、「お国のために」と言う意識が確立されている。

 戦後の使節団を構成する“要人たち”の質は、その意味でもあまりにもお粗末すぎる。

 

 

「外遊」の字の通り、観光旅行化しているからである。

 

その意識の低さに、岩倉具視ら“本物の使節団”一行は呆れているに違いない。

≪明治政府が本格的に条約改正交渉に収り組むのは、寺島宗則外務卿の時代(明治六~十二年=一八七三~七九)である。

 

 

アメリカは初めから好意的であり米国との間では関税自主権の交渉に成功するが、他の欧米語国からも同様の了解をとらなければならない条項があり、実施に至らなかった。

それは当然である。アメリカ向けだけ高い関税をかけられては、アメリカは損である。

 

 

それでは多数国と交渉しようとしても、全部の国から同時に同じ条件を勝ちとることは容易ではない。

 

 

その後も、条約改正交渉は、二国間交渉とするか多国間交渉とするかで、その間を行ったり来たりすることになる≫

今継続されているTPP交渉を見ればよくわかる。

 

 

当時も今も、こと外交交渉となると、国益優先で他国の手を縛ることに全力を挙げるのだ。

その昔、外務省国連局に出向して、「軍縮委員会」を垣間見た時、私はつくづくそれを痛感した。

 

 

会議場の表でも裏でも、参加国は自国が軍事的に有利になるための策を施し、会議の“目的”である軍縮などどうでもよいと行動していたからである。

 

 

しかし我が外交官は、軍事を禁止された憲法の影響からか、ひたすら真面目に「軍縮によって平和を構築する!」と言う“使命感”に燃えていた。

 

 

もとより中には、それで外交官としての地位を向上しようと言う目論みもあったに違いなかった。

尤も意識が低かったのは、軍縮委員会の活動を伝えるメディアであった。

 

 

彼らは「軍縮」を文字通り解釈して、軍備を縮小することと単純に解釈していた。

軍縮会議における各国の意識は、「相手国を如何に軍縮させるか!」と言う点に集約されていたから、「軍縮」と言う看板とは違って、内容は単なる「軍備管理」に過ぎなかった。

 

 

しかし当時の我が政府要人は、軍事の基礎を体得していたし、戦争の目的も実によく理解していたのである。

続く井上馨外相は、鹿鳴館を建てて欧化政策をすすめ、日本は欧米並みの文明国であることを宣伝して、治外法権撤廃と関税自主権の回復を目指したが、国内のナショナリストたちの反発を買い断念する。

 

 

後任の大隈重信外相は、治外法権撤廃の条件としての妥協案が事前に漏れ、右翼・来島恒喜か投げた爆弾で片足を失い、条約改正も挫折する。

 

 

いずれの場合も外国人を裁判する際に、外国人の判事を参加させるという妥協が、国辱として、国民の反発を買ったのである≫

政治家にとって国内に台頭するナショナリズムを軽視することはできない。

 

 

外交は国内情勢に左右される。

 

 

現在でも、沖縄の基地問題にそれがよく表れている。

敗戦国日本に、自作の憲法を押し付けた米国は、確かに沖縄の“自主性”を制限する行動をとることが多い。

 

 

これが真の保守派にとっては対米従属と言う屈辱に写るのだが、ただ、沖縄の各種闘争は、いわゆる反米で反日思想に染まったナショナリストとは名ばかりの、似非活動家らに支配されているのであり、その点を混同してはならないと思う。

 

 

尤も、占領から解放されても未だに自主独立精神を取り戻せない政府の責任の方が大きいと言えるのだが…。

≪歴代の明治政府の懸案であった条約改正を仕上げたのは、明治二十五年(一八九二)八月に発足した陸奥を外相とする第二次伊藤内閣であった。

 

 

陸奥外相が選んだのは、多数国の国際会議でもなく、譲歩しそうな国の各個撃破でもなく、世界の覇権国であり、最大の通商国である英国との交渉による中央突破だった。

 

 

そして英国との二国間交渉によって、大勢が決せられることになるのである。

 

 

そして、治外法権は、条約発効(五年後)と同時に撤廃、関税自主権はそのまた十二年後に回復されることとなった。

 したがって、日本が関税自主権を回復するのは明治四十四年の小村外相の時であり、実に明治四十五年間のほぽ全期間を要する大事業であった。

 条約改正は、常に、外国との交渉と、国内の反対を抑える二正面作戦か求められた。

 

 

過去の交渉は、いずれも一応、外国との交渉は妥結させながら、国内のナショナリスティックな反対で挫折していた。

 議会でも国粋主義者が圧倒的に多く伊藤や陸奥ら開明派は少数派であった。

 

 

これは、日本開国以来、明治から昭和に至るまでの日本の宿命であった。

 

 

開明派は、常に少数だったが、エリートとして権力の中枢に近かったので、政策の主導権を握ることができたのである。

 

 

陸奥の条約改正案は、それ自体は、反対できるような内容はなく、反対派の主張は反対のための反対であったが、それでも議会の多数は如何ともし難かった≫

現在の政治に比べれば、当時の日本人の烈々たる独立精神が伝わってくる。

 

 

例え政府に批判的な者でも「愛国心」に貫かれていたのである。(元空将)