「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 トランプ政権、中国「華為技術(ファウェイ)」を締め出しへ | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成30年(2018)1月11日(木曜日)
        通巻第5574号   <前日発行>
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 トランプ政権、中国「華為技術(ファウェイ)」を締め出しへ
  豪も中国からの政治献金、政治家への贈答品受領を禁止、
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 前から深刻な問題だった。

 

 

オーストラリアでは政治家への外国からの献金は不法ではなく、中国は高価なローレックスの時計をペアで、じゃかすかと有力な政治家夫妻へ贈呈したり、政治献金も際立っていた。

 

 

 野党がこの問題を鋭く追求してきた。

このため中国の無法な投資やロビィ活動に目を瞑ってきたが、国民の怒りが爆発し、ついにキャンベラの議会は外国からの政治献金の禁止へ踏み切る(議案は「中国」を名指ししていないが、外国の献金はほかの国から殆どない)。

 キャンベラの中国大使館の前では、法輪功がテント村を張って、臓器移植問題や法輪功実践者への弾圧を指弾している。

 

 

言論の自由は確保されているが、シドニー、メルボルンなどの中華街は中国人で溢れかえり、華字紙新聞も多数が発行されている。

 

 

町の看板はすべて中国語だ。

 

 

なにしろシドニーの人口450万のうち、50万人が中国人である。

 中国企業の華為技術は豪の通信回線ネットワークへの参入を要請し、豪政府は国家安全保障上の理由から拒否した。

 

 

つづいて華為グループはオーストラリアからソロモン諸島への海底ケーブル設置プロジェクトに入札しようとしたが、同じ理由で豪政府は拒否した

 戦後、オーストラリア政治は安全保障において米国とは同盟国であり、経済関係は中国がダントツのパートナーだったし、この微妙なバランスの綱渡りを演じてきた。

 

 

石炭と鉄鉱石の鉱区は中国資本が進出して、とりわけ鉄鉱石の国際相場は、中国の需要が決定的要素となった時期もあった。

 

 

 中国はこの貿易関係を梃子にオーストラリア政治にも嘴を突っ込んできたため、反感を高めてきた経緯がある。

 

 

人民日報系の『環球時報』は、「南シナ海の問題で豪政府が米国と一緒になって批判を強めるのは、将来の中豪経済関係に悪影響を与えるだろう」と一種恐喝めいた論説を掲げた。

 とはいえ豪政界にはラッド元首相に代表されるような親中派が多く、西北のダーウィン港の中国の99年間の租借を認めた。

 

 

またオーストラリアの大学は39%が外国人留学生だが、その裡の大半が中国人。

 

 

また大学と北京の研究所とで最新技術開発の共同研究も進められており、その資金、人材などの面でずぼっと「中国漬け」になっている。

 

 

最新技術の殆どが軍事技術の汎用であり、これが豪のアキレス腱である。


 ▼アメリカも華為技術のAT&T子会社の買収を拒否

 2018年1月9日、米国政府は華為技術がM&Aによる買収を進めていたAT&Tの子会社案件を「国家安全保障上の理由から認められない」とした。

 

 

 日本人は忘れているが通信は国家主権にかかわる死活的重要要素であり、外国企業の参入は政治学のイロハから言っても許可する方が可笑しいのだ。

 米国連邦議会上下院「情報特別委員会」は昨師走20日に、連邦通信委員会に書簡を送り、華為技術のスマートフォンのネット拡大のためAT&T買収を見直すよう促していた。

 

 

これは先にもアリババの子会社「アント・ファイナンス」が、電子送金の専門ネットワーク「マネーグラム」買収を直前にストップをかけた事案につづく。

 もっとも米国はすでに数年前から華為技術と中国通訊のコンピュータ、通信設備ほかの連邦政府の使用を禁止している。

 

 

 中国は反撥を強め「報復措置を講是ぜさるを得ない」と脅迫的言辞をならべている。

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 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘OPINIONS 読者之声
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(読者の声1)貴誌通巻第5573号の(読者の声1)に、「そもそも齋彬は江戸屋敷に生まれ、江戸に育ち、あの時期に鹿児島にいた記録はありません」との宮崎先生のコメントがありました。

 

 

しかし島津斉彬が藩主として薩摩へ初のお国入りを果たしたのは確かに参勤交代で鹿児島に行った嘉永4年(1851)〈斉彬43歳〉のことですが、それ以前にも、鹿児島に行った記録は複数残っています。

 

 

例えば、斉彬が初めて鹿児島にお国入りしたのは天保6年(1835)〈斉彬26歳〉ですし、弘化3年(1846)〈斉彬〉にも琉球問題に対処するため鹿児島に行っております。

 

 

それは別にしても、最近のNHKの大河ドラマの時代考証はかなり低レベル。
(YW生、大田区)


(宮崎正弘のコメント)

 

 

ご指摘の通りです。文脈としては、西郷と齋彬との最初の出会いがいつであったかの時代考証ですから、江戸入りする齋彬のおともに西郷が選ばれたのは安政元年(1854年)で、この時が両者の最初の出会いです。



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(読者の声2)

 

 

いつも貴重な情報をありがとうございます。ちょっと古いですが、年明けですので、笑える話題を。
「沖縄に集まった基地反対派のプロ左翼、行動がサルと同じだと話題に」
http://netgeek.biz/archives/83434
 日本語が通じないわけですね。納得しました。
   (NS生、千葉)


(宮崎正弘のコメント)

 

 

これは貴重な写真ですね。こういう視点からの諧謔、まことにユーモラスです。