◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 621」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 621」

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さて、9歳の子供であった宗光はどんな行動をとったのか。

≪家人がこれを抱きとめ、叱りつけたが聞き分ける様子もない。家人に食ってかかり、涙が出ると手水鉢で涙を洗っては何度となく議論をしかけた。

 

 

そして、その後も、朝夕に復讐呼ばわりをしてやまなかったという≫

権力闘争に巻き込まれた一家は、極貧生活に落ちぶれるが、宗光にはそのあたりの“大人の社会の経緯”が理解できない。その逆境から奮起する。

≪当時、大和の五条という天領にいた本屋の主人が、たまたま和歌山に来ていて、宗光が復讐と叫ぶのを聞いて、これは面白い子だと思って「紀州家に仇討をされるなら、天領の代官になりなさい」と言ってくれた。

 

 

宗光は雀躍して喜び、大和五条にある老人の家の食客となって、『地方凡例録』や『落穂集』などを勉強した。

 

 

これらは幕府の民政の書で、代官の教科書であった。陸奥が、後年、日本近代化を一挙に促進した地租改正の議を提案したのは、この時の素養があったからという。

 大人が読んでも面白い物とは言えない本を、数え年十歳の少年が読んで、後に残る

ほど理解し、吸収し得たとするならば、それは仇討の気魂があって初めてできることと思う。

 

 

その後も、窮乏の中で母親について四方を流浪するが、十五歳の時、高野山の老憎が江戸に行く供をして江戸に出る。

 

 

とりあえずの行き先は、伊皿子(現在の東京都港区)の高野山出張所であった。この時、七言絶句を賦している。

「朝誦暮吟十五年 瓢身 漂泊 難船に似たり 他事 争い得ん 鵬翼の生ずるを 一挙に雲を排して九天に翔けむ(古典や詩文を学んで十五歳になった。

 

 

難破船のように身を寄せる所もない。しかしいつの日か、他との競争に打ち勝って鵬の翼を得よう。

 

 

一挙に雲を突き破って、大空を駆け巡るのだ)」≫

古来賢人は、文武両道、とりわけ詩歌を良くした。つまり当時の“教養”である。9歳にしてこの作風である。如何に子供心にも悔しかったかがよくわかる。

しかし、戦後、特に“日教組教育”が徹底した以降は、この様な“神童”が出現した事は寡聞にして聞かない。

 

 

この様な幼いころから「確固たる精神」を持った少年たちが出なくなったことも、わが国外交が弱体化した原因の一つであろうと思う。

 

 

いやこれは何も文官に限ったことではない。軍人にもその傾向が読み取れる。岡崎氏は言う。

≪ここに宗光の生涯の目標はピタリと定まっている。陸奥は、十五歳にして予見した通りの生涯を送るのである。並はずれた天賦の才と刻苦勉励大両翼にして、ハングリー・スポーツのような人生を辿ることになる≫

その後、この様な異才をだれがどのように守り育てたのであろうか。江戸期から明治期に移行する変動期だったからか、当時の青年たちの精神を支えていたものは、やはり武士としての心構えであったように思える。

≪陸奥は、その後、父・宗広と親交のあった坂本竜馬に見込まれて、勝海舟(一八二三~九九)の海軍操練所に入った。

 坂本も勝も幕末維新の動乱期に現れた最も傑出した人物である。

 

 

坂本は、それまで犬猿の仇敵であった薩摩、長州の二大反幕勢力を結合させて、討幕維新を達成させた人である。

 

 

そして勝は、後に、幕府を代表して、朝廷代表の西郷と談判して、江戸城を官軍に引き渡し、明治維新を平和的に解決させ諸外国の干渉を未然に防いだ人である。

 両者とも、変動期でなければ出現しなかった人物である。両者に共通するのは、当代一流の剣客としての資格を得ている。

 

 

剣の修行というのは、単に剣を扱う技術だけでなく、心を練ることをその大きな目標にしていた。

 とくに当時の人は、胆力を練る、ということを重視した。胆力という言葉は、現代語で表現することは難しい。

 

 

具体的には、どんな修羅場になっても冷静沈着を保ち、判断力を保つということである。

 事実、勝は、若いころの坐禅と剣術の修行が、後年、幕末維新の難局に際し、役に立ったと振り返っている。

 

 

「危機に遭って逃れられないと思ったら、まず自分の命を捨ててかかった。なんとか逃げようとすると、ひるんだ気持ちに乗じられる。

 

 

まず勝敗の念を度外に置いて、心を空にして事に当たった」姿勢が、勝の心に平静と自由をもたらしたという≫

徳川200年の太平の世においても、やはり日本男子の精神を支えていたものは武士道精神だったと言える。

 

 

翻って戦後のわが国は、占領軍の支配下において「武道」は一切禁止され、昭和27年の独立とともに復活した。

 私が高校生になった昭和30年当時、漸く復活したものの剣道は防具が破棄されていたため、柔道の様に即座に復活できなかったから、

 

 

当時占領軍の指導で行われていたのは「竹刀競技」という、稽古衣ではなく体操服の上に貧弱な防具をつけ、竹刀も本来の4本割の竹で組まれたものではなく、

 

 

節目ごとに2分割、先端部分は16本に分割され、その上竹刀全体が袋で覆われた“袋竹刀”だった。

 

 

あまりにも柔軟なので、打突は不正確、その上相手に軽く接触しただけでポイントになるという、いわばフェンシングを真似た競技だったから、「サムライ精神」が育つわけはなかった。

 

 

私は高校1年生の時にこれを習ったが、外国人が「へっぴり腰である理由」がよく理解できたものである。

その後2年生になると防具が支給されるようになったので漸く剣道部員になった気がした。だから当時の若い陸奥の気持ちが痛いほど理解できる。

≪陸奥は、この勝海舟の薫陶を受けて、海外の事情に目を開き、攘夷論が不可能なことを覚った、とある。この陸奥の開化思想は、その後、生涯変わらなかった。

 猫の目のように変わる幕末の政治の転変の中で、勝の海軍操練所もやがて閉鎖されると、陸奥は坂本竜馬の海援隊に入る。海援隊は脱藩者の集まりであった≫

時代の変わり目には、若い力が要求される。それは日本のみならず、革命を経験した欧州諸国もそうであった。日本も革命を体験しつつあったのである。(元空将)

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