◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 614」
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前回私は、日米開戦直前に忽然と名前が出てきた時の外務大臣・内田康哉の人物像に関して、外交評論家・岡崎久彦氏の「時の国民意識の変化を代表していた・・・。
彼の思想は、国家の行く末を案じて大局的に俯瞰した結果生まれたものではなかったように思われる」と言う説に同意した。
つまり、私は大東亜戦争の開戦に関する資料のほとんどが、旧帝国陸海軍軍人の戦略ミスをことさら強調して“悪罵”し、これが日米開戦の原因だったかのような説が多いことに疑問を抱き、
「大東亜戦争は全て軍人が悪かったのだ」とする戦後の東京裁判史観に影響されているからではないのか?との疑問を抱いてきた。
更に本来のわが国外交は、国際間で信用され尊重されると同時に、国益を守り自国の尊厳を傷つけないように慮った外交に徹していたと理解していた。
それは日清戦争でも日露戦争でも支那事変でも、わが国がとった軍事行動と外交活動は、万やむを得ず行動したと思われるものが多かったからである。
にもかかわらずわが国が侵略者であったかのように言われているのは、“敗戦”と言う現実によって「神国日本は不敗である」と指導されてきた日本国民の信念がもろくも崩れ、国民が打ちひしがれたその反動が大きかったからであろう。
勿論共産党をはじめとする反日活動や、GHQの巧みな宣伝と操作によって覆い隠され、大東亜戦争における“軍規正しい”日本軍の戦闘の真実が、国民に伝わっていないからであろうと思われた。
つまり、戦後の日本人教育は、反日組織に利用され、日本精神をむしばむ日教組らの手に渡ったからである。
しかし戦後70年以上を経た今日、漸く「歴史の真実」が次々と明るみに出始めた。
ソ連が崩壊した後の1995年になって公開された「ヴェノア文書」という、ソ連コミンテルンのスパイ達が主要各国内で蠢いていたことを示す『交信記録』が発刊されたが、わが国では、未だに敗戦意識が強かったからか、一部の専門家たちの参考書になっただけであった。
この文書は「1940年から44年にかけて、アメリカにいるソ連のスパイとソ連本国との暗合電文をアメリカ陸軍が密かに傍受し、1943年から1980年までの長期に亘ってNSAが英国情報部と連携した解読した」一連の文書であった。
しかし、わが国でも一部ではあったが、これを見た識者たちにとっては衝撃的なものであり、戦後の歴史観を根底的に覆すに足る内容を持っていたから、
この文書が公開されると都合が悪いと感じた我が国内の“有識者”やリベラルメディアらは、懸命にこれを隠そうとした。
すなわち、この文書は、戦後のわが国の歴史教育界を支配していた「戦後史観」を根底から覆し、日本に戦争を仕掛けたのはルーズベルト政権であり、そこには大勢のコミンテルンのスパイたちが幹部の位置を占めていて不都合な情報はすべて握りつぶし
、大統領を手玉にとっていたことが歴然としていたからである。それはそうであろう。
コミンテルン、つまりソ連にとっては、西からドイツに、東から日本に挟撃されることが最大の恐怖だったからである。
そこでなんとしても日米開戦へもって行く必要があった。「アメリカを使って日本をたたきつぶす。
同時に日米を消耗させ、その隙を突いてシナ大陸を共産化し、東欧諸国もすべて自分の支配下に置く」というのがコミンテルンの当初からの極秘戦略だったのであり、
そのため我が国に送り込まれたのがゾルゲであり、朝日新聞記者であった尾崎秀美らであった・
2次世界大戦後の世界各地には、共産主義独裁政権が乱立していったのであり、その結果、世界中で数千万の無辜の民が殺害され、共産主義と戦った知識人らはこの世から消されていった。
バルト三国、ポーランド、チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニア、そしてモンゴル…などなど。
そして今や対戦相手であった時の米国大統領F・D・ルーズベルトは、「狂人」であったという「フーバー大統領の回想録」が出てくるほどになった。
現在残っている共産主義国の代表は、シナと北朝鮮だとされているが、既に彼らは共産主義と言うよりも、資本主義的手法で全体主義・専制主義を推進する国になったと言っても過言ではなかろう。
この様な世界の歴史を管見してみると、人類の進化の遅さを痛感する。
つまり、人類誕生以来、戦いは日常茶飯であり、生きるためにはやむを得ないものであったが、時が過ぎて国家が形成され、兵器が進化して来るにつれ、中には戦いの無慈悲さを嘆くものも現れた。
一部の宗教などがそうであろうが、しかし、それがまた戦いの原点になったのだから何をかいわんやである。
わが国が近代戦を体験したのは日清戦争以降だと見做せば、徳川の太平の世を開国に導いた諸外国の「武力侵攻」が大きく影響していた。
近代化が遅れていた我が国政府は、富国強兵政策に従って、国民一丸となってそれに対抗しようとした。
そして初めて体験した近代戦である日清戦争では、勝ちはしたものの、列強諸国の傲慢な3国干渉によって、占領地は奪われ、何のための戦だったのかわからなくなった。
そこで武力の必要性に気づいた国民は「臥薪嘗胆」を合言葉に、一心に富国強兵に励んだのである。
そして次に勝ち取ったのが日露戦争だったのだから、当時の国民がそれを狂喜したのは自然の成り行きであったろう。列強に伍する武力を持つべきだと。
この当時の日本外交については前出の岡崎久彦氏による「明治の外交力:陸奥宗光の「蹇蹇録に学ぶ:海竜社」が非常に参考になる。
「蹇蹇録(けんけんろく)」とは、日清戦争について、当時の外相・陸奥宗光が記した回想録だが、次回からはこれを読み解いて、軍事力ではなく外交力について分析してみようと思う。(元空将)
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