奥山篤信の映画批評 112 英国映画「マクベス(原題:MACBETH)」2015 | 護国夢想日記

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奥山篤信の映画批評 112 英国映画「マクベス(原題:MACBETH)」2015
~人の生涯は動きまわる影に過ぎぬ。あわれな役者だ~
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「ハムレット」「オセロー」「リア王」とともに、シェイクスピアの4大悲劇のひとつ「マクベス」の映画化


中世スコットランドを舞台に、勇敢で戦闘に長ける忠実な武臣だったが、悪妻に唆され、ついには権力欲と名誉欲にとらわれたマクベスの人生の最期を描いた名作であり、その後色々な形でオペラ、映画、舞台など、さらには黒沢明監督が、昭和32年、その映画「蜘蛛巣城」脚本の拠り所とした


この映画は原作に忠実であり、2015年カンヌ映画祭第68回コンペティション部門に出品された。「SHAME シェイム」「それでも夜は明ける」のマイケル・ファスベンダーがマクベスを演じ、マクベスの妻に「エディット・ピアフ 愛の讃歌」のマリオン・コティヤールが扮する。


監督は、初長編作「スノータウン」がカンヌ国際映画祭映画祭批評家週間で特別審査委員賞を受賞するなど、新進のオーストリア出身のジャスティン・ガーゼルである。


1606年頃にウィリアム・シェイクスピアが書いた戯曲であるが、モデルである実在のスコットランド王マクベス(在位1040年?1057年)は17年間の長期にわたって王位にあり、当時は下剋上が当たり前の時代であって、マクベスの行為も悪行とは言えず、統治の実績もあり、戯曲に見るような暴君ではなかったそうだ。


シェクスピアの物語る人間の本質は今でも変わらない。人間の権力欲・支配欲、女性の魔性、嫉妬、愛欲、復讐、小心と大胆、面従腹背などなど、古今東西の名作は、人間を描いて普遍性がある。人生晩年を迎えると、かって若き時代に読んだ印象とは異なるが、瑞々しい感動を与えてくれる。


特に人間を善悪の杓子定規で判断する宗教的倫理や道徳のむなしさ、人間は矛盾に満ちた存在であり、感情の動物でもあり、何が善か?何が悪か?など悪が善であることもあり、善が悪であることもあり、文字通りのこともある。


人生はだからこそ味わい深いのであって、究極は人間とは、所詮矛盾だらけの愛すべき存在なのだ!


シェイクスピアはそこまで透徹した観察眼と分析眼を持ち合わせていたと判断する。


ウィリアム・フォークナーの小説『響きと怒り』("The Sound and The Fury")のタイトルは、「マクベス」の第5幕第5場におけるマクベスのセリフから引用されたものだと言われている。


<あすが来、あすが去り、
そうして一日一日と小きざみに、時の階(きざはし)を滑り落ちて行く、
この世の終わりに辿り着くまで、


いつも、きのうという日が、愚か者の塵にまみれて
死ぬ道筋を照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の燈し火!
人の生涯は動きまわる影に過ぎぬ。あわれな役者だ、
ほんの自分の出番のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、


そしてとどのつまりは消えてなくなる。
白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、
何のとりとめもありはせぬ。 - 福田恆存訳>

この小説は、アメリカ合衆国南部の特権階級だったコンプソン家がその家族と名声の崩壊に苦闘する姿を中心に描いている。


まさに<白痴のおしゃべり>から始まり<何のとりとめもありはせぬ>で終わるこの小説、フォークナーはノーベル賞受賞にあたって<人は心から湧き出るもの、すなわち「普遍的な真実」について書かなければならない>と語った。


人生は何を意味するわけでもない。人生の成功には意味が付されるのが常。しかし成功と失敗の違いは何なのか?まさに「人の生涯は動きまわる影に過ぎぬ。あわれな役者だ」


さてこの映画は、映画ではあるが本来の戯曲の良さを最大限に生かしているところが印象的であった。


映画や小説は終末が未来への余韻が残るものがほとんどだが、あの三島由紀夫が芝居の本質について語る<因果関係の諸因子は、序幕の幕あき前に待機しており、幕切れで呈示された諸条件はのこらず充足され、現象的事実の全ては終わり、因果は全部成就されねばならぬ>が、この映画手法にあてはまる。
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