◆書評 : 西村真悟『国家の覚醒』(展転社) | 護国夢想日記

護国夢想日記

 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

◆書評 ◎しょひょう ▼BOOKREVIEW □書評●
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 憲法を取りもどし、軍人の名誉を回復し、日本を正常化させるために
  敵のプロパガンダに嵌った左翼の横暴、マスコミの出鱈目を乗り越えて

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西村真悟『国家の覚醒』(展転社)
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 愛国の政治家、西村さんの最新作。いつものように読んでいて胸が熱くなる。


 副題は「天壌無窮、君民一帯の祖国日本」とあるから、それなりに内容の想像がつくかも知れないが、文章はときに浪花節調である。


 この本では湊川、江戸無血開城、西南戦争が語られ楠木正成勝海舟、山岡鉄舟、西郷隆盛、乃木希典らがいかに偉大であったかが熱っぽく語られる。
そうだ、西村氏の文章には熱い熱い灼熱の憂国の訴えが籠もっているのだ。


 そして提言される。
 「この国難を克服する為には、心と体がいるまず我が国国民が、中国共産党が、我が国の富を取り込み我が国を人民の憎悪の対象とする為に繰り広げているプロパガンダに迎合すればそこで我が日本は独立自尊の日本でなくなる。


従って、中国共産党は、寝ながら野望を実現できるこの対日戦略を仕掛けている。つまり巧妙な対日心理戦、宣伝戦である。」


 いうまでのないが、南京大虐殺も731部隊のプロパガンダである。
 「安保法案の審議中、中共は、南シナ海の島嶼を埋立てて軍港と滑走路を建設していたのである。


何故、与野党はこのことを審議しなかったのか。次世代の党だけが質問したに過ぎない。責任ある与党ならば、野党の中共に迎合した『戦争法案反対キャンペーン』に対して、まさに進行している中共の南シナ海侵略を具体的に掲げて反論し国民の理解を求めねばならなかったのだ」。


 そして国会前の反対集会のプラカードには中国本土で使用されている省略漢字が使われていたごとく、あるいは中国語が飛び交っていたごとく、徹底的に怪しいデモだった。


 日本を取りもどすためにわれわれは何をすべきなのか。
 憲法を取りもどし、軍人と軍隊を取りもどさなければならないと最後の最後まで西村さんは憂国の熱情を傾けて、愛国の文章を綴った。
       ◇□西○ □△村◎ □○真△◎□悟◇ 
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 書評 しょひょう BOOKREVIES その2
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三島由紀夫論をまとめて三冊
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佐藤秀明編『人間の性(さが) 三島由紀夫の言葉』(新潮撰書)
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三島由紀夫の人生の箴言がならぶエッセンス
「さびしさ、というものは、今日急にここへ顔を出すというものではない。ずぅーと前から用意されている」
「利口であろうとすることも人生のワナなら、バカであろうとすることも人生のワナ」
「たとえ動機が私利私欲であっても、結果がすばらしければ政治家として許される」
など名言集。佐藤さんは編集部からコピペで良いですと言われたが、全集を元に全部正確に書き写し、その作業がまた楽しかったと告白しているあたり、撰んだ言葉は珠玉ばかりである。



今年、没後四十五年を記念して東大と青学キャンパスで『国際シンポジウム』を実際に主宰された井上先生は三島研究と同時に野間宏の研究家でもある


戦後文学を代表した二人の長編小説を対比させつつ、この対極の二人の深淵に迫る力作。


とりわけ全体小説とは何かという発想から、三島が受けたヨーロッパ文学の影響と、おなじく野間が戦後共産主義文学をとなえつつ、長い物語に挑んだ動機などを、ひろい視野にたって論じているあたり、ユニークな仕上がりとなっている。


「ふたりの方法は、両者でまったくことなる。何れも、生と世界の全体を捉え、表現しようとしているが、その全体という言葉の意味するところは、必ずしも一致しない。


(中略)相対化するとも言えるような相違もある。もっとも、このことは、両者が単に相反する関係にあるのではなく、むしろ、相補的な関係にあることを示すものかもしれない」と、ちょっと歯切れが悪い結論でおわっている。



梶尾文武『否定の文体 ――三島由紀夫と昭和批評』(鼎書房)
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本書の表現空間は異次元的かとも思えるが、用いられる言葉も文芸評論的語彙というより政治方面の語彙が多い。

筆者はこういう。
「読むという経験によってその実存を浸蝕され、文学というあのネガティブは『外部の空間』に住まう存在であった三島が、みずからの文体において文学空間を切開し、やがてこの空間の外部性=否定性に安住し得なくなる過程を、彼自身が読み、書いてきた言葉、あるいは彼を呼んだことによって書かれた言葉に密着しつつ素描する」ことを試みたと。


したがって三島の急激な政治傾斜と楯の会の誕生から自決へといたる過程は「美学と行動の闇」ということになる。


その間に日本学生同盟、生長の家学生組織、楯の会の発足とその過程で生じた様々な出来事を、上記のような独特な視点から眺めやることになり、なぜか高橋和己や橋川文三ら、政治論としてではなく文学論としては場違いな評論からの引用が多くなる。


この文学評論は『異次元の言葉』で論じられた、不思議な三島解釈となっている。
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井上隆史『三島由紀夫『豊饒の梅』vs野間宏『青年の環』』(新典社)
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