佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 485」
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こうして、1888年の開通を豪語していたレセップスの構想は大きく崩れていき、 集めた資金はたちまち底をつく。結局“詐欺師的手腕”では目的を達することが出来なかったのである。
≪工事に欠かすことのできないパナマ鉄道の買収額は二千五百万ドルでした。
この額は会社の持つ資金の三分の一に当たる巨額なものでした。難工事の連続で手持ちの資金をたちまち枯渇させたパナマ運河会社は社債の発行を繰り返し、資金繰りをなんとか乗り切っていました。
しかし第八回目の債券募集が行われた一八八八年三月には予定額の四分の一しか集められなかったのです。有名人であるエッフェルに水門設計を委託したのは投資家の安心感を得るためでした。
しかし市場はそれには反応しなかったのです。工事の遅れは投資家マインドを冷やしきっていました≫
この文章からは、今も昔も、事業(運河建設)が目的なのか、名声が欲しいのか、それとも金目当てなのかはっきりしないが、事業失敗だけの経緯を見ると、現代でもバブル崩壊や、リーマンショックなどと相通じているものが見て取れる。
人間のあくなき欲望という点では進化はあまりないといえそうだが、犠牲になった者は救われない。19世紀も現代も、人間の行動学にはさほど変化はなさそうである。
≪巨額な負債を抱えてパナマ運河会社が倒産したのは一八八九年二月四日のことでした。
工事に注ぎ込まれた総額は二億八千万ドル(現在価値六十五億ドル)。十九世紀最大の倒産劇でした。
これだけの規模のプロジェクトが崩壊すれば政府がその尻拭いをしてもおかしくはありません。しかしフランス政府が救いの手を差し伸べることはありませんでした。そうしたくてもできなかったのです。
アメリカはこのプロジェクトに当初から不快の念を示したヘイズ大統領からグリーブランド政権を経て、ハリソン大統領の時代に入っていました。
時代は移ってもアメリカのモンロー・ドクトリンヘの固執の姿勢には何の変化もありませんでした。純粋な民間事業であることが、アメリカ政府がこのプロジェクトに横槍を入れなかった理由でした。
倒産したからとはいえ、フランス政府がこの事業を救援し、国家プロジェクトにすることはけっして容認できるものではありません。
ハリソン大統領は「フランス政府の介入には断固反対の意思を伝えた」のです。孤立無援に陥ったプロジェクトはこうしてその終焉を迎えました≫
風雲児?レセップスの個人的な金儲けか、それとも名声獲得が目的だったのかはわからないが、少なくとも国家戦略上から見て、国防上の危機感を抱いていたアメリカにとっては僥倖だったといえよう。
≪一八九三年一月に始まったレセップス親子やエッフェルを被告とする裁判は巨額の投資資金を失った投資家や債権者の鬱憤を晴らすセレモニーでした。レセップスは嘘で固めた甘言で投資家を騙した。
エッフェルは会社が倒産することを知りながら巨額の手付金を受けとっていた。これが罪状でした。詐欺を疑われたのです。判決は二月九日に下っています。禁固五年、罰金三千フラン。
これがレセップス親子に下された宣告でした。判決を聞きながらシャルルは顔を両手で覆い、流れ落ちる涙を隠していました。
そこにはすでに八十八歳になっていた父の姿はありませんでした。裁判に耐えられる体ではなくなつていたのです。裁判が行われていることも知らず病院に収容されていました。
エッフェルにも同様に有罪の判決が下っています。二年の禁固に二万五千フランの罰金でした。始めてもいない仕事に多額の手付金を得ていたことが裁判官の心象を悪くしていたのです。
下された判決のほとんどが上訴審で覆されましたが、彼らは汚名を引きずったまま生きていかなければなりませんでした。建設工事で命を落とした関係者の数の正確な数字はありません。
二万という数字も出ています。その数が一つ増えたのは、フェルディナンードーレセップスが亡くなった一八九四年十二月のことでした≫
軍事行動においても『一将功なりて万骨枯らす』ことがあるので指導者たるものは大いに自戒しなければならないのだが、レセップスの栄光がいとも簡単、かつあっけなく終わったことが何とも虚しく感じられる。
レセップスの強引な手法で命を失った技術者たちは、未だに浮かばれてはいまい。
≪「レセップス家にはまったく財産がなくなっていた。葬儀の費用もなかった。費用を工面したのはスエズ運河会社の取締役会であった」
パナマ運河会社は負債を清算し(一八八九年)、パナマに残された資産は新パナマ運河会社に引き継がれていきました(一八九四年)。運河開削の工事はわずかその三分の一を終えていたに過ぎませんでした。
レセップスのプロジェクト失敗にアメリカ政府は安堵していたに違いありません。アメリカが本当の意味で、一つのまとまった国家になるためには、北米大陸の東と西を数週間で結ぶパナマ運河はどうしても必要でした。
そして同時にその運河はアメリカによってコントロールされたものでなければアメリカの安全は保障されるものではないのです≫
建国間がないアメリカの、将来を見通した防衛戦略の見事さがうかがえる。これを契機に、米国は海上を支配しようとする意識が高まっていく。
一八九〇年代に入るとかの有名なアルフレッド・マハンが「海上権力史論」を著して、海外拡張を強く主張する。
更に、上院議員ヘンリー・ロッジ、二人と親交の篤いセオドアールーズベルトらがアメリカ主導の運河建設を強く訴え始めるのである。
マハンらによるこの主張の正しさが証明されて、世論が動くのは、スペインとの戦いである。海上戦力が二分されたアメリカの危機を国民は身近に感じる出来事が起きたからである。(元空将)