西村真悟  天皇の詔書の重み | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。


西村



西村真悟  
天皇の詔書の重み

 我々は、欧米の歴史を学ぶに、
 例えばイギリスのマグナ・カルタ、フランスの人権宣言そしてアメリカの独立宣言などの文書によってその理念を知るように教えられてきた。

 それ故、我が国の義務教育における世界史の教科書は、全てこれらの文書に触れている。

 さらに、同じ教科書は、現在の第二次世界大戦後の世界秩序は、昭和十六年(一九四一年)八月に、イギリスのW・チャーチル首相とアメリカのF・ルーズベルト大統領が発した「大西洋憲章」に基づいて形成されたと述べている。
 少なくとも、私は、そのように習ったと記憶している。

 そこで、八月十五日を明日に控えた本日、
 明日必ずマスコミが取りあげるいわゆる
「玉音放送」つまり「大東亜戦争終結の詔書」と、
 これと不可分一体の詔書に関して述べておきたい。
 
 欧米の歴史と理念を学ぶ為に、前記の通り各文書を重視するならば、我が国の歴史と理念を学び実感するために、同様に重視すべき文書とは、「天皇の詔書」、即ち、「おおみ心」であるからだ

 そこで思ふに、
 昭和二十年即ち六十九年前の八月十五日正午に発せられ国民が全国津々浦々の場所で拝聴した
「大東亜戦争終結の詔書」(玉音放送)と
 昭和十六年、七十三年前の十二月八日に発せられた、
「大東亜戦争開戦の詔書」は、不可分一体である。
 「開戦の詔書」があり「終戦の詔書」があるのだ。

 さらに、終戦後の降伏文書調印によって開始された連合軍による占領下で始めて迎えた昭和二十一年一月一日に発せられた
「年頭、国運振興の詔書」は「新日本建設に関する詔書」とも言われ、その一部を以て「人間宣言」とも呼ばれる詔書であるが、


 これぞ、戦前と戦後の連続性を確認し、明治維新の精神と理念を以て、戦後日本の国家と民族が目指すものであることを鮮明にした歴史的詔書である。


 従って、混迷と危機の現在にあって、我々が、もう一度噛みしめなければならないのは、
この昭和二十一年一月一日に発せられた「年頭、国運振興の詔書」である。

 そして!
 この現在日本の目標を指し示された「年頭、国運振興の詔書」が冒頭に掲げるものこそ、
 明治天皇が明治の初めに掲げられた「国是」であるから、


 明治天皇が、慶応四年(明治元年)三月十四日に発せられた
「五箇条の御誓文」と「国威宣布の宸翰」こそ、
 現在の我が国の最重要な文書であると言える。

 以上、我々が明日の八月十五日に、マスコミや各所で「大東亜戦争終結の詔書」(玉音放送)に接するならば、この詔書と不可分な
「大東亜戦争開戦の詔書」、さらに、


終戦後の我が国の国家目標を鮮明にした「年頭、国運振興の詔書」及びそれと不可分な「五箇条の御誓文」と「国威宣布の宸翰」は必ず思い浮かべるべきである。なお、「宸翰」とは、天皇の国民に対する手紙のことである。

 以下、各詔書について短く触れておきたい。

「大東亜戦争終結の詔書」


 この詔書の凄さは、原子爆弾出現の人類文明における意味を指摘されていることである。当時、世界の元首で、この人類文明への危機を見抜いた人士はいない。


 原爆投下を命じた大統領トルーマンは、戦艦オーガスタに乗っていた。そして、広島への原爆投下の一報を受けたとき、甲板で飛び上がって喜んだ。そして、この馬鹿、この人非人、は、叫んだ。

「人類史上最初のことが起こった!
 さあ、みんな早く家に帰ろう!」
 
 これに対して昭和天皇は、「詔書」に曰く、
「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶところ、真に測るべからざるに至る。


 而も尚、交戦を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。」
 そして、続けられた。


「今後、帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も、朕よく之を知る。然れども、朕は時運の趨く所、堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ、以て万世の為に太平を開かむと欲す。」

「大東亜戦争開戦の詔書」


 米英両国との開戦に至ることを
「洵に已むを得ざるものあり豈朕が志しならむや」とされ、次に開戦に至る経緯を、「中華民国政府」が帝国の真意を解せずに濫りに東亞の平和を攪乱したことに端を発すると続けられる。


 この「中華民国政府」を「中華人民共和国政府」と読み替えれば、現在進行中の状況となる。
 そして、詔書は言われる。
「事既に此に至る帝国は今や自存自衛の為蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり」

 しかれども、
「戦局必ずしも好転せず、世界の大勢、亦我に利あらず」
 我が国は敗北する。
 
 その敗北後に始めて迎えた正月に発せられた詔書が、
「年頭、国運振興の詔書」である。


 この詔書を天皇の「人間宣言」と我が国の教科書は教えるが、とんでもない!


 天皇が人間であることなど、既に明治天皇が明治維新に臨んで赤裸々に述べておられる。昭和天皇は、この明治天皇の赤裸々な心情を嗣いでおられるだけである。
 
 この詔書の本体は、冒頭に
「明治天皇明治の初国是として五箇条の御誓文を下し給へり。曰く、」と「五箇条の御誓文」を掲げて、
「叡旨公明正大、又何をか加へん。朕は茲に誓を新にして国運を開かんと欲す」
 とされるところにある。


 そして、
「夫れ家を愛する心と国を愛する心とは我が国において熱烈なるを見る。今や実に此の心を拡充し、人類愛の完成に向ひ、献身的努力を効べき秋なり。」
 と説かれる。
 
 この時、まさに昭和二十一年一月、
 インドネシアでは、日本軍が育成したペタ(独立義勇軍)に所属するインドネシアの若者達が、日本軍の武器を持って、再びインドネシアの植民地支配を回復しようとするオランダ・イギリス軍と戦い始めていた。

 そして、千五百名を超える日本軍兵士達は未熟な彼らを見捨てて日本に帰還することをせず、インドネシアに残留して彼らと共に戦う決意を固めていた。

 インドネシアにいる彼らは、
陛下の、「人類愛の完成に向ひ、献身的努力を効すべき秋なり」という詔書を知っていたのではないか。

 戦中は、フィリピン、インドシナ、ビルマそしてインドネシアの植民地支配者を駆逐し、戦後は、インドネシア独立のために戦った彼らこそ、陛下の「おおみ心」を体した兵士であった。

 この敗戦後の国民を振るい起こす詔書は、次の一文で結ばれている。

「一年の計は年頭に在り、朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして、自ら奮ひ、自ら励まし、以て此の大業を成就せんことを庶幾(こいねが)ふ。」
 素晴らしい詔書ではないか。

 そして、この詔書の基礎にあり、この詔書を生み出したものこそ、「明治天皇が明治の初めに発せられた国是と精神」である。
 それが、明治元年三月十四日の
 「国威宣布の宸翰」だ!
 
 これは、若き十代の溌剌たる明治天皇の、
身を震わせるて発せられた赤裸々な肉声である。
 「人間宣言」などという軽薄なレッテルなど吹っ飛んでいる。冒頭は次の通り、

「朕幼弱を以て、猝(にわか)に大統を招(つ)き、爾来何を以て萬国に対立し、列祖に事へ奉らむやと、朝夕恐懼に堪さるなり。」
 
そして、
「今般朝政一新の時にあたり、天下億兆、一人も其の処を得さる時は、皆朕が罪なれは、
 今日のこと、朕、自ら身骨を労し心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古列祖の盡させ給ひしあとを履み、治績を勤めてこそ、
 始めて天職を奉して、億兆の君たる所に背かさるへし。」
と国民に宣言されている。

 以上の通り、
 六十九年前の昭和二十年八月十五日に発せられた「大東亜戦争終結の詔書」(玉音放送)は、


 明治元年の明治天皇の「国威宣布の宸翰」と「五箇条の御誓文」を基盤として、前後の「大東亜戦争開戦の詔書」と「年頭、国運振興の詔書」と一体をなしたものである。


 とりわけ、
 昭和二十一年の「年頭、国運振興の詔書」は
「国威宣布の宸翰」と「五箇条の御誓文」に顕れた
 明治維新の志の継続と実践を国民に促し、それが、
「我が国民が人類文明の福祉と向上との為、絶大なる貢献を為す所以なるを疑はざるなり。」と結ばれた高貴で感銘深いものである。

 冒頭にも書いたように、
 欧米の歴史学習において人権宣言や独立宣言を重んじるならば、それと同じ程度に、我が国史における天皇の詔書を重んじねばならない。


 そうすれば、我が祖国の歩みが実感できる。
 ここに、戦後の病つまり自虐史観などのカビが発症する隙もない。
 明日の八月十五日を切っ掛けに、
 ここで指摘した詔書を今一度お読みいただきたい。


 そして、我らは、
 詔書の「おおみ心」を心耳で聴くことになる。