奥山篤信の映画批評86 英国映画『あなたを抱きしめる日まで(Philomena)』2013 | 護国夢想日記

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奥山篤信の映画批評86 英国映画『あなたを抱きしめる日まで(Philomena)』2013

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~イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(マタイ18:22)~



マーティン・シックススミスのノンフィクション本『The Lost Child of Philomena Lee』を原作としている。アカデミー賞作品賞・主演女優賞・脚色賞・作曲賞部門でノミネートされた作品である。僕の観点から言えば、この作品こそ作品賞を受賞すべきであったと考える。

カトリック界には反発があった様子でニューヨーク・ポストでのカイル・スミスの「カトリックへの悪質な攻撃である」に対して、この映画のプロデューサーは紙面に全面広告を出して抗議した。


この映画が「反カトリック」と決めつけるのがカトリック教会の正式見解とすれば、まさに自分自身が偽善と欺瞞の自己撞着に陥っており、この映画の描く修道院と同じ体質であることを露呈することになる。



この映画はヴェネツィア国際映画祭において金獅子賞を受賞した2002年の『マグダレンの祈り』を彷彿させる。それは1996年までアイルランドに実在したマグダレン洗濯所施設でカトリックの戒律による婚外交渉した女性などを収容し酷使していた実話に基いたものだ。


同様、題名の映画の描くアイルランド修道院において婚外交渉したシスターを最も過酷な労働である洗濯(罪を洗う意味もある)担当など懲罰制裁するだけでなく、その私生児を米国の富豪に売りつける非道のシステムが存在したのである。

だからと言ってこの映画がアンチ・キリストと解釈するのが大きな間違いであるどころか、この映画は本来のイエス・キリストの高邁な教えを讃歌しているのである。

問題はどの社会にも存在する組織体の堕落である。人間が生きる為に組織や社会は必ず必要である。しかし組織ができるやいなやその組織は権力闘争や自己保身により堕落が始まる。


トロッキーはその処方箋として永久革命を説いた。キリスト教も宗教として存在する限り共同体組織が前提であるが、その組織は「罪人」による組織であり必ず堕落し、イエスの本来の意図とはかけ離れた悪の組織に変貌しかねないのである。



この映画の主人公フィロミナ(ジュディ・デンチ)は、若気の恋に陥り妊娠し、勘当されアイルランド修道院に送られ、そこで私生児を設ける。


罪深い女として修道院内で過酷な制裁を受け、あげくは大切な子供を奪い取られてしまう。彼女は奪い取られた息子に会いたい一心で50年間を過ごしていたのである。


その彼女の前に現れたのはBBCキャスターから政府顧問にまでなったが、解雇され失意のなかにあった原作者でもあるマーティン(スティーヴ・クーガン)であった。


かってはカトリック者であったが、いまは神など一切信じない無神論者である。この二人が渡米し、子供の行方を追いかけ、真実に肉薄する旅がこの映画のストーリーである。


キリスト者と懐疑主義者との応酬に加え、下層階級のフィロミナといわば世の成功者としての上流階級のマーティンの、何から何まで生活様式の異なる二人の不協和音がコミカルに描かれていて絶妙である。



フィロミナは、艱難にも拘らず、神への愛を失わない、人を恨まず、人を憎まず、自分の受けた仕打ちへの復讐心など丸でない。男は社会正義に怒りを爆発させ、真実を暴くことに職業上の誇りをもつプロフェッショナルである。


しかしフィロミナを通しての神の恵みが、次第にその男の職業的野心を、本来の人間としての優しさそれはキリスト的愛へと導いて行くのだ。

キリストの教えでの<赦し>とは人間にとって最も感情的に難しい問題だが、男の正義の怒りに対して悪の根源である元修道院長は、一切謝罪せずそれどころか苦しみは、当時のふしだらな罪の償いだと言い切るのである。


そこに割って入ったフィルミナは<私は貴女を赦します>というのである。それは、まさに彼女はキリスト者として修道院長に勝利した感動の場面だ。

そんなキリストの溢れるような愛を讃えたフィルミナ役をこなすのがジュディ・デンチであり神業とも言える演技である。