南丘喜八郎 :独立不羈の覚悟─日本国の自立と再生を目指して | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

南丘喜八郎 『月刊日本』創刊二〇〇号発刊に当たって
独立不羈の覚悟─日本国の自立と再生を目指して
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 平成九年四月に『月刊日本』を創刊して以来、十六年余の歳月が経った。創刊に当って、私は「日本の再生を願って」と題した創刊の辞で次のように書いた。


いま日本国は羅針盤も方向舵も失った巨大客船の如く、行方も知れず大海の荒海に翻弄されているかのようです。戦後世界を支配していた冷戦構造が崩壊したいま、進むべき方向を求め、暗中模索、五里霧中の状況にあります。
 


アメリカの庇護の下、安逸を貪っていたわが国もいよいよ、自らの頭で考え、自らの足で立たねばならない事態に直面したと言えます。借り物のイデオロギーを振りかざしても、この閉塞状況に風穴を開けることは出来ません。
 


わが国は先の大戦から半世紀の間、冷戦構造という世界秩序の中でアメリカという超大国の庇護のもと、経済活動のみに専念してきました。そこには日本独自の外交・安全保障政策は不要でした。


否、邪魔ですらありました。したがって、国家の基本法である、民族共同体の核である歴史観も、すべて外国製という異常な事態が続いてきたのです。しかし、冷戦は終焉し、わが国が安逸を貪ってきた条件はことごとく消滅したのです。
 


怠惰と甘えは、もう許されません。自らの頭脳で思考し、自らの足でしっかりと大地に踏ん張り、自らの行動の結果は自ら潔く責任をとるという、まともな国民、まともな国家にならねばならないのです


そのためには、半世紀の間に喪失してしまった大切なものを取り戻す必要があります。その上で、真の独立を達成し、日本を蘇らせねばなりません。それが、いまを生きるわれわれに課せられた歴史的使命なのです。〉
 


この創刊の辞を書いてから十六年余、わが国は残念ながら国家的危機に直面しながらも、未だ五里霧中、暗中模索を続けている。何故なのか。

   国家を滅亡の淵に追いやる「当事者意識」の欠如
 


日本国漂流の原因は、為政者だけでなく、私たち一人ひとりが当事者意識を喪失し、他人任せの無責任状況に陥ってしまっているからではないのか。自国の安寧、安泰だけを思い、他国の顔色、鼻息を窺おうとする政治家が罷り通っている。


しかし、このままでは日本国はやがて滅亡の淵に追いやられるに違いない。こうした当事者意識の欠如、精神の弛緩は、決して今日だけに特異な現象ではない。


大東亜戦争直前の昭和十四年に東京帝大を追放された河合栄次郎は昭和十五年、国家的危機に臨んで、こう学生を叱咤激励したのだった。(『学生に与う』)


〈大局を達観する洞察の明、大事を貫徹せずんば止まない執拗な意志、自己の持場を命を賭して守る誠実と真剣さ、小異を捨てて大同に就く和衷協同の心、何よりも打てば響くが如き情熱、之こそが今日の、否将来の、祖国の難局を克服し得る精神的条件でなければならない。


我々の祖先は武士道の名に於て、自己の進退を決する規準を所有していた。日本精神の叫ばれる今日、武士道の精神は地に塗れていはしないか。一言にして云えば、今日の日本には精神の弛緩がある。〉
 


大東亜戦争の開戦前夜にあって、河合栄次郎は当事者意識に欠如し、他力本願を捨てきれずにいる若き学徒に対し、叱咤激励せずにいられなかったのだ。

 中国・戦国時代にあって、当事者意識を欠き、覇者の地位を奪われた者がいた。かつて戦国の七雄と言われた梁(晋)は周囲の斉、秦、楚などに逼られ苦境に立っていた。梁の襄王は遊説家孟子に尋ねる。


〈孟子、梁の襄王を見る。(襄王)卒然として問いて曰く、天下悪にか定まらん(天下はどのような姿に落ち着くであろうか)。〉
 


吉田松陰はこの件を『講孟箚記』で、こう論じる。
〈梁の襄王の暗愚、固より論を待たず。梁国四方難多し。然るに襄王一も憂勤??の色あることなし。其の「天下悪にか定まらん」と云ふは、世上話なり。かかる田別者、安んぞ与に語るに足らん。〉
 


四方を強敵に囲まれ、国家存亡の危機に直面している梁の襄王の当事者意識の欠如に、松陰は呆れ果て「このような馬鹿者と天下の大事を語るのは無益だ」と言い放った。
 


昨今の政治状況を見るに、政治家は勿論、識者や評論家の中にも「この国はどうなるのだろう」と、あたかも梁の襄王の如く、国事を他人事として論じ、恬として恥じない御仁が見受けられる。


松陰ではないが、「かかる田別者、安んぞ与に語るに足らん」と言わざるを得ない。
 


この松陰は斬首される十ヵ月前の安政六年正月、萩野山獄から高杉晋作宛に手紙を送る。


〈吾輩皆に先駆けて死んで見せたら観感して起るものもあらん。夫がなき程では時を待ちたりとて時はこぬなり。忠義と申すのは鬼の留守の間に茶を呑むやうなものではなし。僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り。〉
 


地位も名誉も、命さえも捨ててかからねば、大業は成し遂げることは出来ない。松陰は常に死を覚悟していた。
 西郷隆盛が遺訓に言う「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也」と、全く同じ心境・覚悟である。これこそ、政治家の必須要件である。 
 
   「赤子が泣くのは俺の心が泣くのだ」


戦時下の昭和十七年十月、中野正剛は早稲田・大隈講堂で「天下一人を以て興る」の演説を行った。中野は天保大飢饉に際し、窮民を救うべく決起した大塩平八郎に言及する。大塩は飢餓に苦しむ庶民を見るに忍びず、決起を決意するが、門弟の一人が反対する。決起しても弾圧されて失敗する、無駄ではないか、と。大塩はこう答える。


〈数日前、淀川を歩いていると捨て子に会った。その泣く声が実に俺の耳の底に響く。母親なるものが捨てた子を見返りながら立ち去りかけたが、また帰ってきて頬ずりをする。


……ついに意を決して捨てていったが、その母親さえも飢えて死にそうな姿だった。お前は赤ん坊の泣き声とお前の心に紙一枚を隔てている。お前は赤ん坊を見物しているのだ。ただ可哀相だと言いながら……。


俺は違う。赤子の泣くのは俺の心が泣くのだ。捨てられた子、飢えたる民、それを前にして見物しながら思案する余地はない。〉
 


中野は「赤子が泣くのは俺の心が泣くのだ」と獅子吼し、翌年十月、東條軍閥政府に抗議して自刃して果てる。中野は政治家として、最期まで当事者意識を持ち続けた。彼が尊敬して已まなかった西郷隆盛も、常に「赤子が泣くのは俺の心が泣くのだ」との意識を有していた。国民から信を託された政治家はかく在らねばならぬ、と思う。
 


二年前の三月十一日、東日本を巨大地震が襲った。一気に一万数千人の命を奪い、津波は街も住居も海に呑み込んだ。福島原発事故は人々から住み慣れた故郷と日常生活を奪った。今も惨状は続いている。しかし、政治はこの事実から目を逸らし、被災者は忘れ去られようとしている。
 


いまも被災地を巡幸され、被災者を激励されておられる天皇陛下のお言葉を忘れることが出来ない。


〈国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくように弛みなく努力を続けていくよう期待します。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでゆくことが大切と思います。〉
 


政治家は本来果たすべき使命をかなぐり捨て、政局に奔走、天下国家を忘却しているが天皇陛下は被災者を「赤子」と考えておられるのだ。実に、「赤子の泣くのは俺の心が泣くのだ」の、ご心境であられるに違いない。
   


被災地に寒き日のまた巡り来ぬ心にかかる仮住まひの人                  御製

   独立不羈の覚悟


『月刊日本』は創刊から二百号を数えるが、最後に改めて言論誌としての覚悟を披瀝しておきたい。


『月刊日本』の題号は、明治二十二年に陸羯南が創刊した新聞『日本』の顰に倣ったものである。陸羯南は『日本』紙上に於いて、薩長藩閥政府の強権政治に対し「国民主義」を掲げ、筆鋒鋭く迫った。


権力者に決して阿ることなく、独立不羈のジャーナリストとして、堂々の言論を展開した。口先では勇ましい言辞を弄する自由民権論者は少なくなかったが、彼らの大半は仇敵の如く罵っていた藩閥勢力と臆面もなく手を握った。


〈眼中に国家を置き、自ら進んで其の犠牲となるの覚悟あらざれば不可なり。独立的記者の頭上に在るものは唯だ道理のみ、唯だ其の信ずる所の道理のみ、唯だ国に対する広義心のみ。〉(陸羯南「新聞記者論」)
 


陸羯南が創刊した『日本』は、連日、「条約改正問題」を論じ、政府から度重なる発行停止処分を受けた。無論、羯南は権力に怯むことなど決してなかった。


硬骨漢羯南の率いる『日本』には三宅雪嶺、福本日南、国分青崖、中村不折、正岡子規、長谷川如是閑など数多くのジャーナリストが集った。
 


私たち『月刊日本』は、陸羯南の顰に倣い、権力に阿らず、毅然として正論を吐き続ける覚悟である。
(月刊日本 創刊200号 12月号 巻頭言より)