南丘喜八郎 何処へ往く! 草花の匂ふ国 | 護国夢想日記

護国夢想日記

 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

南丘喜八郎 何処へ往く! 草花の匂ふ国
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  昭和十六年、真珠湾攻撃を告げる開戦のニュースと緒戦の勝利は国民の暗鬱なる気分を一気に吹き飛ばした。

 詩人高村光太郎は「詔勅をきいて身ぶるいした。/天皇あやうし。/ただ一語が/私の一切を決定した。/身をすてるほか今はない。/陛下をまもろう。」(『暗愚自伝』)と思いつめ、「わが向うところ決然として定まる」と記した。
 

 だが昭和十八年を迎え、戦況に暗雲が忍び寄る。ガダルカナル島撤退、山本五十六連合艦隊司令長官戦死、アッツ島守備隊玉砕の悲報が相次ぎ、同盟国イタリアが無条件降伏した。
 かくて、「決戦!」「欲しがりません勝つまでは」「鬼畜米英」が叫ばれる。この間僅か二年に過ぎなかった。

 昭和十八年十月二十一日、秋の冷雨が降り頻る明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われた。東京帝国大学以下計七十七校の二万余が陸軍分列行進曲「抜刀隊」に合わせ、銃を肩に行進する。これを見送る徴兵免除の理工系学生、旧制中学生徒、女学生ら計九十六校五万余は観客席を埋め尽した。
 

 冷雨降り頻るなか、二万余の出陣学徒が整然と分列行進する。軍靴がなく、地下足袋・ゲートル姿で雨に濡れ行進する学生の姿も多数見られた。当時、銑鉄や石炭など基礎物資生産は激減、消費物資生産も極端に低落し、日本経済には根底から崩壊の危機が忍び寄っていた。既にこの時、我が国には狂瀾を既倒にめぐらす術はなかったのだ。
 

 出陣学徒代表が「生等もとより生還を期せず」と答辞を述べると、期せずして「海ゆかば」の大合唱が起った。押し寄せる怒涛のような数万の学徒の、振り絞るような歌声は呻きのように響き渡り、辺りを圧した。
 

 壮行会が行われた後、マッキン・タラワ両守備隊に続き、サイパン島守備隊が玉砕。戦局が悪化すると学徒兵も特別攻撃隊に配属され、多くが散華した。

 そして、昭和二十年八月、維新以来、幾多の先人が艱難辛苦の末に成し遂げた近代化の結晶・大日本帝国は終焉した。壮行会での海ゆかばの大合唱は、明治政府が遮二無二推し進めた近代化の末に到達した大日本帝国への挽歌だった。

 出陣学徒壮行会は抜刀隊で始まり、海ゆかばの大合唱で閉じられた。これは我が国の近代化路線を象徴している。
 

 「抜刀隊」は、西南戦争の田原坂の戦いで薩摩軍と奮戦、城山で西郷隆盛を自決に追い込んだ警視庁白兵戦部隊を讃える軍歌である。西郷を屠り、その屍を顧みることなく蹂躙した大久保利通率いる有司専制政府は、近隣アジア諸国を足蹴にして欧化路線を突き進む。

 この時からアジアの「草花の匂ふ国」(桶谷秀昭)は重武装国家へと歩みだすことになる

 西郷が主導して成し遂げた明治維新、その維新政府を運営するに際し、西郷は「五箇条の御誓文」の精神を体し、「万機公論に決すべし」を理念に掲げる「国民議会論者」(坂野潤治)だった。

 西郷は「征韓論者」の烙印を押されたが、断じて否である。明治八年の江華島事件に際し、西郷は、朝鮮政府を侮って卑劣な挑発を繰り返し、両国の長年の交流を無視した大久保利通ら有司専制政府を厳しく糾弾している。
 

 西郷曰く、「(西洋が)実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己を利するは野蛮ぢやと申せし」(『西郷南洲遺訓』)。
 

 西郷が肝胆相照した勝海舟も認識を共有していた。幕末、軍艦奉行の勝を訪ねた桂小五郎にこう言う。
 

 「今我が邦より船艦を出だし、弘くアジア諸国の主に説き、横縦連合、共に海軍を盛大し有無を通じ、学術を研究せずんば彼(欧米)が蹂躙を遁がるべからず。まず最初、隣国朝鮮よりこれを説き、後、支那に及ばんとす」


  しかし、西郷が無念の憤死を遂げた後、大久保率いる明治国家は只管、欧化政策を推し進め、帝国主義国家への道を突き進む。その延長線上に日清戦争があり、日露戦争があった。勝曰く、「日清戦争におれは大反対だったよ。兄弟喧嘩だもの犬も喰わないヂャないか。維新前から日清韓三国合従の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引き受ける事を計画したものサ」(『氷川清話』)
 

 しかし、我が国は日清・日露の戦に勝利し、その後、西欧列強に組し、帝国主義路線を直走った。その帰結が、昭和二十年八月十五日だった。大久保主導による明治国家の近代化路線が欧米列強に惨めにも敗北したのだ。
 

 北一輝は『支那革命外史』に、「日本は彼(中国)に対して斯る不仁の兵を用ひんとするか。ああ支那に不仁の兵を用ひるの時は米の正義を求むるに対して不義の戦を挑むの時、而して日米開戦に至らば白人の対日同盟軍と支那の恐怖的死力によりて日本の滅亡は朞年を出でず」と記している。
 

 歴史認識の議論が喧しい。私たちは明治近代化に真摯な眼を向け、再検証すべき時ではないのだろうか。
月刊日本6月号【巻頭言】
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