南丘喜八郎 月刊日本2月号 【巻頭言】 石橋湛山の「自力更生」論に学べ! | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

南丘喜八郎 月刊日本2月号 【巻頭言】 石橋湛山の「自力更生」論に学べ!
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  敗戦の翌年昭和二十一年、首都東京は国会議事堂、首相官邸以外はまだ焼け野原で、米軍のジープが濛々たる砂塵を上げて走っていた。


  朝鮮、台湾などの植民地を失って領土がほぼ半分に縮小、海外から数百万人の同胞が引き上げて来る中で食糧不足は深刻化し、一千万人が餓死すると言われていた。


  五月には皇居前広場に二十五万人余が参加し、食糧危機突破国民集会が行われた。事実、京浜地区では米穀配給の遅配により一日平均十人が餓死するという状況だった。


  こうした前途暗澹たる状況下、幣原喜重郎内閣が総辞職し、食糧メーデー直後に吉田茂内閣が組閣を終え、蔵相石橋湛山が颯爽と登場した。石橋は同年四月の総選挙で落選したが、石橋が『東洋経済新報』を主宰する見識ある経済学者であるとの評価を聞いた吉田は、躊躇なく蔵相に起用した。

 七月二十五日、石橋は国会の財政演説で「国民に業を与え産業を復興し、遊休生産要素を動員して生産活動を再開させることが肝要だ。その必須条件としてフル・エンプロイメントを目指すべきだ」と述べ、最後にこう訴える。
 


  「我々は日本の前途を決して悲観すべきではない。我々は民主主義と平和主義に徹底し協力一致奮励するならば、希望の海は洋々として前面に展開している。人間は現在よりも将来の希望に生きるものであり、輝かしき平和日本の民主主義経済の建設がかくて成功する日を想望すれば甚だ愉快にたえない。勇気が勃然として全身にみなぎることを感ずる」
 


  大蔵省では積極財政を唱える石橋に対する反発する空気が強かった。当時、主税局課長だった前尾繁三郎(後に衆院議長)は「大蔵省の役人は伝統的に緊縮財政が習性となっていた。


  野放図な国債論や赤字財政を主張されるようなら皆で結束して食い止めなければならないと手ぐすね引いて待ち構えていた」と回想する。これに対し石橋は固い信念と情熱で、主税局長池田勇人や森永貞一郎(後の日銀総裁)、前尾ら官僚たちを次第に心服させていった。
 


  財政演説は大蔵官僚が書き、蔵相は唯読み上げるだけというのが慣例だが、石橋は官僚の書いた演説原案を赤鉛筆で全文修正し、自ら筆を執って書き直した。


  この石橋財政演説に対し、当時の学者は「生産設備、労働力はあるが、肝心の原材料の輸入は認められていない。この状態でケインズ理論を取り上げるのは間違いだ」と、一斉に反発する。世論も挙げて石橋演説を「インフレ財政」と攻撃し、石橋は孤立無援だった。だが、石橋は怯まなかった。
 


  各界から「石橋インフレ財政は生活食苦の根源だ」との批判が強まったが、石橋は「デフレこそ恐るべきもの。完全雇用を目指す投資と、政府と民間の設備投資に見合う生産が行われれば、インフレにはならぬ」との信念を曲げなかった。危急存亡の時に当って採るべき政策は、ケインズ理論に基づく「積極財政」であり、収支の辻褄合わせの「健全財政」でも「緊縮財政」でもない。これが石橋の信念だった。 
 


  石橋蔵相が直面した難題の一つが終戦処理費問題だった。終戦処理費とは進駐軍の占領諸経費のことであり、連合国はこれを日本の義務と定めた。その費用は国家予算の三分の一以上を占めるほど膨大だった。吉田首相はGHQの言いなりだったが、石橋は断固として大幅削減を求めた。


  石橋は衆院予算委員会の秘密会で、占領費は住宅費やゴルフ用地費、将校への花や金魚の宅配費などであることを詳細に説明し、「終戦処理費が日本経済を破綻に瀕せしめている」と、涙ぐみながら大幅削減に全力を尽す決意を表明した。
 


  石橋は許される限度ギリギリの抵抗を信念を持って実践した。これがマッカーサーの忌憚に触れ、蔵相就任一年後に公職を追放される。


  石橋追放のシナリオを書いたGHQ民政局のホイットニー少は、「石橋は戦時中、日本の帝国主義を助長する論調を展開した」と記した追放指令文書を吉田首相に手交した。石橋は直ちに反駁文を書いて記者会見し、「責任者はホイットニー少将で、マッカーサー元帥にも監督上の責任がある」と述べたのだ。
 


  GHQは直ちに反撃に出る。戦犯である元逓信大臣久原房之助の財産を差押さえすべきところ、大蔵省の措置に遺漏があったとして、監督者である蔵相石橋の刑事責任を追及するというのだ。GHQの狙いは石橋逮捕にあったのだが、余りに理不尽な目論見は当然ながら沙汰止みになった。石橋は決然とGHQと闘ったのである。

 石橋は終始「自力更生」、即ち占領軍に頼らず、極力日本自身の力で自己改革に着手、実践すべしと考えた。湛山には自ら戦時中もリベラリストとして、軍部や右翼と戦ってきたとの自負心があった。また米国に全面的に国家改造を委ねることは新日本建設のための真の改革にはならない、との理念があったのだ。
 


  新政権には、是非とも、この湛山の「自力更生」の気概に学んで欲しいと願う。
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「甦れ美しい日本」  第1326号


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