佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 382」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 382」
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 空技廠長の和田中将は、父親も軍人で自分も用兵の道に進み、航空隊でパイロット教育を受けている。しかし足を負傷してその道を絶たれたため、技術の道へ進み、海軍大学校選科学生から東京帝大工学部に入ったという。


 横須賀海軍工廠では航空機の機体設計に携わりドイツに派遣されてドルニエやハインケルと親交を持った


 そんな経歴から部下たちからは「用兵と技術をよく知る高官」と認識されていた。また航空本部長だった山本五十六からも高く評価されて重用された(航空情報)。

 そんなこともあってか、航空本部の要職につき、試作機計画などを自信を持って進めていったが、「用兵側の出身だけに、強気の姿勢が目立ち、気負いもあり、それが裏目に出た」と前間氏は見ている。


 こうした現実に対して強い疑念を持っていた中川氏自身は、≪多分、海軍はこの戦争に勝てると思っていなかったんじゃないだろうか。


 太平洋決戦機に「誉」を搭載すると言って施策を民間に命令しておきながら、あんな時期に戦争を始めたという事は、海軍の計画から見て基本的に狂っていたというべきでしょう


  少なくとも「誉」は生産に入っていなきゃいかんはずだ。そんなバカな事はないじゃないか。何のために「誉」を作ったのかね、山本五十六さんも源田実さんも、飛行機で戦争をするといったにもかかわらず、何をしているのだろうと、疑問を通り越して憤りすら感じた。


  人をだましやがって、ひでえことをしやがった。開戦の報を聞いた時、即時、大敗北になるだろうと思いましたね≫と語っている。これもいわば、我が国が計画的に「大東亜戦争」で世界に侵略戦争を仕掛けたのではないということの傍証になっていると思うのだが、更に中川氏は次のような驚くべきことも語っている。

 ≪開戦の一か月前まで、われわれのエンジン工場に(技術導入した)アメリカの(二大エンジンメーカーの一つ)カーチス・ライト社の技術者が来ていて、生産に関する指導をしていた


 中島でどんな種類のエンジンを何台生産できるか、どの程度の技術力なのか、彼はすべて知っていた。何しろ機械の並べ方まで教えていたのだから≫

 そして前間氏も「もちろんそのことは、このエンジン工場に駐在する陸海軍の駐在官も知っていたし、陸海軍の航空本部の承認も得ていた。


  日米開戦直前に、その米国人技術者は帰国した。中島飛行機に関する情報を米軍本部にすべて報告したことは言うまでもないであろう。「軍記」とか過剰なまでのスパイの取り締まりをしていた陸海軍(憲兵)の現実は、こんな重大な手抜かり犯していた」と慨嘆している。

 ことほど左様に、昭和16年12月に起きた真珠湾攻撃、つまり対米英戦の開始は、国内の諸準備はもとより、関連部署との間においてさえ、思想統一が全くはかられないまま起こされたちぐはぐなものであった。


  国の存亡をかけた「やむにやまれぬ決戦」だったはずだが、その準備と戦略…ものの考え方は支離滅裂だったことは、このような技術研究開発分野でも見られたのである。

 私がいつも不思議に思っているのは、既に書いてきたことだが、戦後「太平洋戦争」と表現させられながらも、根強く「大東亜戦争」と呼称する風潮である。


 勿論私も陛下によって聖戦として発動されたこの戦争は「大東亜戦争」と呼称するのが適切だと考えているが、過酷な日米戦争が繰り広げられた太平洋海域が主役だけあったこともあり、どうしても「日米間の戦争」だととらえやすくなる。


 つまりそれが実態であって、大東亜戦争は、残念ながら『米国』に負けたからでもあろう。

 ABCD包囲網などというが、英国にも支那にも、ましてやオランダなどは、開戦時鎧袖一触、3年余も血みどろな戦いを繰り広げたのは主敵・米国のみであった。


 したがって戦場の大半は広大な太平洋にならざるを得ない。そこで「海軍」が主役になるのだが、そのまた主役であったはずの連合艦隊の戦いぶりは、既に書いてきたように、尻すぼみで惨憺たるものであった。


 しかもそれは、大陸での大会戦を念頭に置いて戦術も訓練も施されていた帝国陸軍を、海軍の戦力発揮基盤である太平洋諸島の守備に引っ張り出したのだから、陸軍が苦戦するのは当然であった。

私はある時、義父・寺井元海軍中佐に率直に語ったことがある

 「海軍は、陸軍を太平洋に誘い出し、不慣れな島嶼守備戦闘で玉砕させた。しかも海軍の要衝を守備するために太平洋の島々に配備しておきながら、ミッドウェー海戦で惨敗し制海権を失うと、ガダルカナル、ニューギニアの例に待つまでもなく、陸軍の撤退を支援しなかった。


  もちろん努力はしたが、実力がなくなっていたので不可能だったことは理解できる。そういう点では、戦後陸軍が悪の象徴になっているが、海軍も山本司令長官のように無責任だったのではないか?」

 勿論酒の席だったから、当初、海軍軍人らしく義父は怒ったが、討論?を重ねていくうちに、今次大戦の鏑矢となった真珠湾攻撃が理解できなかったようであった。

 義父のワシントン駐在時の記録に「開戦前夜と開戦当日の出来事」としてこうある。

≪私は一二月六日(土曜日…現地時間)の夜、大使館の事務室で夜遅くまで書類の整理をしていた。

 海軍武官事務室は、大使館事務室の二階端にあって、大使の寝室とは中庭を隔てて向き合っていた。土曜日の夜のこととて、館内に人気はなかった。野村大使はあれやこれやを思い悩んで寝付かれなかったのではなかろうか。


 その時私の部屋の灯火を求めて、二階廊下伝いに私の部屋に足を運ばれたのであろう。部屋に入るといきなり私に「寺井君、日本は如何(ママ)しようとしているのかね。」と質問を発せられた。


 私は即座に「まさかアメリカに戦争を仕掛けることはありますまい日本軍の南仏印等の進出から、万一アメリカ側から戦端を開く様なことも考慮して、ここ数日来の動きをしているのではないでしょうか」と答えた。


 これを黙って聞いておられたが、そのまま何も言わずに、また、もと来た道を通って帰って行かれた≫

(元空将)
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「蘇れ美しい日本」 第1259号