日本国憲法に於ける「国民主権」の害毒 その2
このように主権の概念というのは、実ははなはだ曖昧なものです。このことを一応わきまえた上で、我々は今此の場合では主権と言うのは一国家の対外独立権である、或いは国際関係における自主決定権であると理解してよろしいのではないかと思います。
ところで、この自主権には力の裏付けがなくてはならないと言う考え方が当然生じてきます。国家が自主決定すべき選択肢は色々あると思いますが、其の中の最高の項目、それは疑いもなく国家が存立する、国家というこの存在を維持確保する権利でありましょう。
つまり、個人の場合は、基本的人権の中で最高の内包は生存の権利でありますが、それと同じ事で国家の場合は国家が自らの存在を維持する権利であります。
そうしますと主権概念の中ではなはだ大きな比重を占めているのが自己の存在を維持し、防衛する権利だということになる。
つまり、国家意志の自主決定と言う権利が妨害された時、其の妨害を跳ね返して、その決定を貫き通す力がなくてはならない。
言い換えれば、意志の発動を妨げられた時にそれを否定し返すだけの力の裏付けを含んだ国家の自主決定権、これが我々が普通に考える国家主権の内容であると見てよかろうと思います。
そうしますと、国家というのは、限界のはっきりした国土を領有し、その国土の上に国民意識を以って統合された国民がいて、そしてこの国民の集団が全体として対外的に自主独立のありかたを保有している、そのような共同体が国家だ、と定義出来ると思うのです。
国家意識というものを特に自覚する必要がない場合がむしろ普通で有り、そのほうが幸せな状態なのだと言えるでしょう。
ところが一旦、この三つの成立条件のいずれかに対する侵害が生じますと、あたかも人が病気に罹って健康が損なわれることに寄って初めて健康と言うものを意識するという、それと似た理屈で人は侵害に対する防衛の必要という形で国家を意識するようになります。
すなわち国家意識というのは、国家の存在に対する何らかの危険を契機として生ずるという場合が非常に多いのであり、またそれが自然のなりゆきというべきでしょう。
以上、 「国民精神の復権」小堀桂一郎著、PHP研究所発行、1999年発行より抜粋。
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「参考」
日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者 を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。