日本国憲法に於ける「国民主権」の害毒 その1 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

日本国憲法に於ける「国民主権」の害毒 その1


日本国憲法の前文には「ここに主権が国民に存することを宣言し・・・・・」という文言がある。


また、第一条の天皇陛下のご存在を規定した部分には

「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」という言葉が使ってある。


だから我々日本人は国民に主権があると思うのは当然である。学校でも国民に主権があると教わって来た。


しかし、これは虚構であり日本人はこの誤魔化しに気づかねばならない。



国家の構成要素は人民と領土と主権である。この主権とは一国の対外独立権であり国際社会における一国の行動の自主決定権である。もし一国の独立を武力で妨げる国があれば武力で防衛することである。



もしこの主権が国民にあるとしたなら国民一人一人の個人が武力で防衛したり独立を維持したり自主決定することになる。


これらが出来ないことは当たり前であるがそれが憲法に堂々と記載されそれを60余年も国民が信じて来たことに驚く。



大日本帝国憲法では、主権という言葉はない。代わりに最高権力という意味では天皇条項と言われる第4章の「天皇の統治権の総覧」にある。



日本国憲法では、「主権が国民に存する」とあるがその主権に統治権があるという含みがあるとすれば現憲法には「国民に統治権がある」という意味になり幾ら何でもおかしい。



国民というのは明らかに統治の対象であり、統治の主体ではない。



昨年の小沢氏の天皇陛下の習近平氏への謁見を強制したことに驚いた。小沢氏は昭和16年に大日本帝国臣民として誕生している。


しかし彼は臣下としての自覚もなく現行憲法を押し頂き恐れ多くも臣下が主上に命令した事件である。



恐らく彼は、現憲法では国民に主権があるのだからその国民に支持され政権を獲得し、しかも与党の幹事長であり最高権力者であるから天皇陛下に命令出来ると考えたのであろう。



民主党に多い左翼政治家は天皇・皇室を尊ばず卑下する言動が目立つのも現憲法に洗脳された結果の一つであると思われる。


・・・・「国民精神の復権」より。・・・・


「日本国憲法に見る曖昧な主権の概念」p108



 矢部先生は「政治学入門」(講談社学術文庫)という本の中で政治学的な国家の定義としては国家とは、人民と領土と主権、この三つの因子が必要にして十分な構成要素であると定義されます。






日本国家を形成する人民とは日本人である。領土に関しても我々は疑わしい問題は持っていない。北方領土の問題はあるが、あれは戦争状態の継続であります。

 

 細かく見ると竹島問題とか尖閣諸島の問題があり解決していないが、日本人は一応安定した国土と人民を持っています。



ところがもう一つの構成要素の主権については、一般的な合意が成立していないのであります。



主権とは何か、憲法を手掛かりに考えてみます。



日本国憲法の前文には、「ここに主権が国民に存することを宣言し・・・」と言う文言があります。


それから第一条の天皇陛下の御存在を規定した部分には「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」という言葉が使ってあります。

 

これは「国民が主権の所有者である」という意味に読めますがそれは明白な誤りです。



これは、米軍の占領下であるにも拘わらず日本国は、国民が存在する以上、主権も保有する、従って憲法制定権も存する、という理屈を自らの為す不正の弁解として述べているまでのものです。

 

しかし、これも一つの虚構に過ぎないということをよくお心得下さい。



この憲法が制定、いや採択を強制された時、日本国の主権は、国民にも天皇にもなかった。


 法人としての国家にも十全な意味においてはありはしなかったのです。

 

さて国家主権の内容、即ち国家における最高権力とは何かと言えば、それは一つの国における憲法制定権力に代表されると理解されます。

 

憲法は言ってみれば国家基本法であります。国家基本法を制定し得るほどの権力ならばその国で最高位における権力に違いないというのは見やすい道理でしょう。



ところが、日本国憲法は周知の如くアメリカ製であります。アメリカの占領軍司令部のほんの一握りの軍人軍属が六日六晩で書き飛ばしたという即席の英文憲法であります。

 

当時の日本人は被占領国の民であり、主権はおろか言論・表現の自由さえ享受していなかった。

 

そのように束縛されていた当時の日本国民が他の国から押し付けられた憲法の中で、憲法制定権力というほどの最高権力が人民にあるなどと妄説を宣言している。



これは、矛盾という様な言い方では足りない、何か途方もなくこっけいで悲惨な状況ではないかと言う気がいたします。



次に、憲法前文の終わりの方に「政治道徳の法則は、普遍的なものでありこの法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務である。」と言う言葉があります。

 

この文脈での主権は明らかに一国の対外独立権であります。言い換えますと国際社会における一国の行動の自主決定権だと言ってもよいでしょう。



このように同じ日本国憲法の前文の中においてさえ、国語としての「主権」と言う言葉が二つの意味を異にした脈略で用いられ、おまけに現実に存しないものをあたかも実在するかの様に装って、それでともかく通用しているのですから主権という言葉の一義的な定義について広い合意が成立しているとは考え難いのが現実であります。



 次に明治22年制定の「大日本帝国憲法」についてみますとここには主権と言う表現はありません。

 

しかし最高権力という意味で用いられている表現は天皇条項と言われる第四章にあります。



つまり「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行ウ。」という簡潔な表現であります。この統治権の総攬が国家の最高権力であろうと考えられる。

 

「日本国憲法」においては「主権が国民に存する」という言い方をしていますけれど、その主権にもし統治権という含みがあると致しますと現憲法におきましては、国民が統治権を有すると言う意味になる。これは幾らなんでもおかしい。

 

国民というのは明らかに統治の対象であり、統治の主体ではないはずです。



このように主権の概念というのは、実ははなはだ曖昧なものです。このことを一応わきまえた上で、我々は今此の場合では主権と言うのは一国家の対外独立権である、或いは国際関係における自主決定権であると理解してよろしいのではないかと思います。 

 



以上、 「国民精神の復権」小堀桂一郎著、PHP研究所発行、1999年発行より抜粋。



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