管直人の水の飲み方は朝鮮式だ Naoto kan is Korean's SPY | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

管直人の水の飲み方は朝鮮式だ Naoto kan is Korean's SPY




「我々は既に日本を征服している」


北朝鮮の復興は心配ない。

我々はすでに日本を征服しているからだ。
やつらの金は我々が自由にできる。
日本の連中は何も知らない!フジテレビが証拠。
日本人はよだれをたらして見ている。

私にまかせろ。
日本に居るのは私の命令に忠実な高度に訓練された私の兵隊だ。


––イミョンバク韓国大統領
(注:「よだれをたらして」というのは、もちろん「犬のように」という意味だ。「犬」とは韓国人の食材。そして日本人の蔑称である。だから韓国人孫正義のソフトバンクのCMは日本人の父親が意図的に「犬」になっているのであるという。ちなみに母親の女優樋口可南子も朝鮮系ですナ。在日帰化の人たち 昔から日本はアジア合衆国と言えるかも。要は天皇か。)







みなさん、こんにちは。

いやはや、いよいよ日本は韓国の属国になるのは時間の問題のようだ。しばらく前に、日本に居住する反日在日セレブの若者が、「勝利宣言」
ある「在日」エリートの「勝利宣言」:「日本社会の仕組みというものを、とくと教えてやるよ。」
を出したことは記憶に新しい。もうすぐ日本が自分たちの手に入るという声明文である。そればかりか、ひとたび手に入れたら、韓流の韓国朝鮮ドラマさながらに、ねちねちといじめ抜いてやるというのであった。

さて、その在日青年とまったく同じ趣旨のことを今度は現役の韓国大統領が言い出したというから、大変素晴らしい時代になったものである。以下のものである。

さてはてメモ帳にある、
李氏朝鮮時代の仏教弾圧 + 汚染列島化への道
の最後の2つの紹介記事である。
与党も野党も朝鮮人だった.....



反日的なマイノリティー勢力がユダヤの日本間接支配の手先に使われている。爆弾発言!韓国大統領「北朝鮮の復興は日本に金を出させる」
 
この、 youtube の動画は消されました。
(これは即効で消されたようだ。日本国内に朝鮮人工作員がたくさんいる証明ですナ。)
爆弾発言!韓国大統領「北朝鮮の復興は日本に金を... 投稿者 fk4pr




この下のものが実に今の民主党政権、また自公政権(どっちに転んでも朝鮮党である)の2大朝鮮政党しかない今の日本という国を彷彿していて面白い。

リチャード・コシミズ氏によれば、自民党の清和会他は韓国統一教会、公明党はもちろん創価学会=北朝鮮の政治フロントであることが明らかであるが、民主党は棺桶直人であろうが、小沢一郎であろうが、鳩山由起夫であろうが、みな朝鮮系である。小沢信者には悪いが、小沢は反米親中だが、親韓である。そこがアメリカイルミナティNWOの横田幕府に嫌われるところらしいが、基本的には朝鮮系なのである。

こんなわけだから、半島の朝鮮民族が戦前戦後100年以上掛けての悲願が「日本占領」、「日本支配」だというのだから恐れ入る。

ところが、日本人の私から言わせてもらうと、朝鮮人であろうが、どこの国の人間だろうが知らないが、あまり調子をこいて日本人を追いつめない方がいいということを忠告しておこう。

なぜなら、我々日本人には私が「大魔神気質」と呼ぶものが眠っているのである。これが時に「神風」を生み出す。「切腹」もまたこの気質から生まれたと私は見ている。「捨て身」の思想である。アラブ人もどこの民族もこれを真似たに過ぎない。

53機も原発を持っている国の国民を朝鮮人が落いつめたらどうなるだろうか?

いずれ、日本人の「大魔神気質」が呼び覚まされ、驚くべき事態が起こらないとも限らないのである。

私は単なる個人だからただこうして自分の印象をメモしているだけだが、日本人の中にはもっと大きな存在の人々もいるから、これからどうなるかは私にも想像できない。

朝鮮人はあまり日本人に関わらない方がいいだろうと私は感じるのだがナ。平和的に合理的に友好的にやることですナ。




おまけ:

李明博
李 明博(イ・ミョンバク、이명박、1941年12月19日 - )は、韓国の政治家。現第17代大統領、元ソウル市長。日本の大阪府出身。1945年までの日本での通名は月山 明博(つきやま あきひろ)[1]。本貫は慶州李氏。号は「一松(イルソン、일송)」。

成長過程および教育 [編集]
1941年、慶尚北道浦項出身の李忠雨(イ・チュンウ、이충우)を父親、蔡太元(チェ・テウォン、채태원)を母親とし、七人兄弟の第五子として大阪府中河内郡加美村(現:大阪市平野区加美南3丁目)島田牧場の社宅に生まれる[2][3]。父親は、1929年から現在の京阪牛乳の前身であった島田牧場で酪農関係の業務を担当し家族を養っていたが、一家は終戦直後の1945年10月に密航船に乗って[3]、父親の故郷である浦項へ引き揚げた。

その当時、高等学校への入学は限られた少数の特権であった。彼のような大家族の場合、一般的に長男が家族の希望のような存在であった。この場合、下の兄弟たちは、兄や姉の教育費を賄うために自分の進学を諦めるのが普通で、彼も高等学校への進学を諦め、兄の教育費を稼ぐために母親の食品売りを手伝うつもりであった。しかし、中学校の教師が母親を説得し定時制の同志(ドンジ)商業高等学校に進学することになった。高校で彼は奨学金の給付を受けながら昼間は仕事、夜は勉学に励んだ。

高校卒業後、ソウルの梨泰院に家族全員で移った。そこで李は「金がなくて中退したとしても、高卒よりは大学中退のほうがましだ」として、大学受験を決意、清渓川の古本屋で参考書を買い受験勉強を始めた。市場で家業を手伝いながら、夜は当時学生の間で流行した眠気覚まし(アンナポン)を呑んで勉強した結果、高麗大学校商学部経営学科に合格。肉体労働のアルバイトをして学費を貯め、1961年に進学した。大学在学中に兵役を務めたが、気管支拡張症により除隊となった。

1963年に高麗大学校商学部学生会長になった翌年、同大学校総学生会長代行となる。その当時学生による民主化運動はピークに達し、日韓会談に対する抗議活動も非常に活発であった。彼は1964年6月、約1万2千人が参加した朴正煕政権下、日韓基本条約締結に向けての日韓会談反対闘争を主導、第6次日韓会談を中止させる(6・3事態)。これにより国家内乱扇動の容疑で逮捕され、最高裁で懲役3年・執行猶予5年(西大門刑務所(서대문형무소)に3ヶ月服役)の判決を受けた。このような経緯で彼は「民主化の一世代」とも言われるようになった。



「蘇れ美しい日本」第1024号より。