大東亜戦争考察ー帝国海軍は何故破れたのか? | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。



 戦力や、兵の錬度・技量で勝る大日本帝国海軍が何故破れたのか?それは、司令官クラスの海軍大学や兵学校の卒業席次による人事に固執したからである。

 

太平洋の決戦場に於いては指揮官の勇気が勝敗を決定するのである。各重要な決戦場に於いて日本海軍は、猛将を起用せず、代わりに智将か凡将を起用して勝てる重要な戦いに於いて悉く敗れている。対称的に米海軍は、猛将を起用して負ける戦いを逆転し勝利した。



 

例えば、真珠湾攻撃であるが司令官の南雲中将と草鹿参謀長は、第三次攻撃を中止して引き上げた。折角、ハワイの米軍の重油タンクを攻撃出来たのにそれをしなかった。

 

何故なら、撃ちもらした米空母の攻撃を恐れたからである。



もし、重油タンクを炎上させていたなら米海軍は、数ヶ月間、西太平洋に於いて軍事作戦が不可能になる損失を与えたであろう。更に、日本海軍による米西海岸の攻撃から守るため陸軍部隊を配置せねばならず、また、大西洋から軍艦を派遣しても石油がないため作戦に著しく支障を来たしただろう。

 

そして、洋上の米空母からB17による東京空襲もなかったことになる。そうすれば、壊滅的な日本海軍の運命を決めたミッドウエイ攻撃もなかったことになる。




実際には、この東京空襲によって日本海軍は面子を失い、大敗北を喫するミッドウエイ作戦を急ぎ計画することになった。皮肉にも、この大胆不敵な東京空襲を敢行した米海軍は猛将によって実行されたのである。

 

また、南雲機動部隊は、真珠湾攻撃の帰途に命令されていたミッドウエイの爆撃もせず帰ってきた。命令は、真珠湾攻撃が予定通り行われてその帰途に「攻撃が成し得る場合」とあったにしても、その理由として敵空母の攻撃が予想されるからと弁解している。




宇垣 纏中将は、南雲機動部隊の行動について「怒りに震えた」と日記にこの時のことを書き残している。




海軍軍令部は、ミッドウエイ攻撃の機動部隊司令官にまたしても南雲と草鹿のコンビの任命している。真珠湾攻撃の成功に酔って南雲中将の指揮を不問に付している。


軍令部が、早くから小沢冶三郎中将や山口多聞少将のような猛将を起用しなかったことが敗戦につながったのである。海軍大学の席次や慣例に捉われて適材適所の人事を行わなかったことに敗戦の原因がある。


そもそも、南雲中将と草鹿参謀長は、真珠湾攻撃に反対だったのである。だからであろうか、指揮は消極的であり任務を早く終えたかったのではないかと思われる。反対だったとしても、命令があったらこの日本の運命をかける戦いに選ばれたことを誇りに思い、一身を投げ打って命を惜しまず全力を尽くすのが帝国海軍の提督ではなかったのか。


このような凡将を何故、起用したのか理解に苦しむのである。 



ミッドウエイ攻撃についても、敵空母部隊を発見した空母蒼竜の艦長の山口多聞少将から「至急発艦ノ要アリトミトム」という報告を聞いても無視し、その後、勇猛な米爆撃機隊の急降下爆撃を受け、虎の子の空母4隻と優秀な搭乗員を失ってしまった。


この敗戦が、以後の帝国海軍と大日本帝国の敗戦につながったのである。




山口少将は、撃沈された空母と運命を共にして海に沈んだけれど、南雲と草鹿は帰還した。この一事をもってしても山口少将が指揮をとっていたら、戦況は違っていただろう。




もし、この作戦の主目的である米空母をおびき寄せて撃沈することが成功していればその後の制海権は日本海軍のものとなり有利に展開することが出来た。


そうすればアメリカは、大西洋で対独戦をまず終わらせてから太平洋の戦争に重点を移す作戦を取ったかもしれない。



それから、次に理解に苦しむのは、このミッドウエイ攻撃に戦艦大和を旗艦とする大艦隊を率いて行った山本五十六司令長官は、何故、機動部隊の後からのこのこ、ついて行ったのかである。




むしろ、艦隊が空母の先に行ってミッドウエイ島を艦砲射撃したほうが余程良かったのではないか?大和の主砲で攻撃すれば、島の陣地を壊滅させることが出来たのではないか?

或いは、連合艦隊として何故、空母と戦艦との集団で作戦しなかったのか?




空母の船足が速く遅い大艦隊と一緒に行動出来なかったのか? 或いは、島の攻撃は空母部隊で大丈夫だと考えたのか?




しかし、このミッドウエイ作戦の前に行われた珊瑚海海戦で日本海軍は、空母一隻を失い、2隻は破損した。その戦いで空母は、敵機の攻撃に弱い、脆弱性があることを日本側は認識して中央に報告していたが、その教訓は全く生かされなかった。





珊瑚海海戦の日本海軍の機動部隊の司令官は、井上中将であったが、敵空母1隻を沈め1隻を大破させて敵空母部隊はいなくなったにもかかわらず井上中将は、任務を継続せず作戦を中止して引き上げたのである。




井上中将は、智将であったが猛将ではなかった。何故、日本海軍の提督は、「会敵必戦」の海軍魂を発揮していない提督が多い。それに比べて、アメリカ海軍は、猛将ぞろいで日本海軍に対して勇猛果敢、大胆不敵な戦いを挑んでいる。




日本海軍は、艦艇を温存する気持ちがあったことはわかるが、この大事な一戦という時には、勇猛果敢に突進するべきだと思う。そのための連合艦隊であり猛訓錬があったのではないのか?




では、山本長官の大艦隊は、何のために出かけたのか? それは、戦いの後の論功行賞を期待したのであろうか? それにしても帝国の運命を決する戦争をしているのだという緊張が伝わってこないのである。




また、戦艦大和では、敵空母と位置を発見していながら空母部隊に連絡していないのである。無電を打てば、艦隊の位置を知られてしまうと言え、空母部隊の運命を決めてしまう決戦に躊躇する理由はないと思うのだが?




結局、山本長官は、智将ではあるが猛将では、なかったように思える。

山本海軍次官の連合艦隊司令長官への転出は、米内海軍大臣が日米開戦に反対する山本の暗殺を恐れての人事だそうだが、この人事は適材適所ではなかったのではないか。

 

連合艦隊司令長官は、そのような簡単な考えで配置するのは如何かと思う。むしろ、その任なら米内大臣の方が適任だったのではないか。この件は、やはり、海軍の人材配置に問題があったと見るべきだろう。

 

なにしろ、山本を司令長官に決めたことで日本海軍の戦いの方向が変わってしまい、結果的には、日本軍が困難な戦いをするはめになってしまった。



 

日本海軍は、真珠湾攻撃に成功したことで戦争前に策定した帝国内洋圏防御戦略からはみでた外洋攻撃戦略へと時の勢いで変更するはめになってしまった。そのため日本本土から遠い場所での戦いを余儀なくされ補給線が予想よりも延びてしまい兵站に問題が出ることになったのである。




日本海軍が制海権を握り一時的に優勢であっても国力に勝るアメリカ海軍は、新艦隊を建造していずれ盛り返す。だから、ついには日本海軍が敗れると考える人もいるけれど、しかし、欧州戦線で連合国が勝利してからは、アメリカ国民は、いつまで戦争を続けているのかと疑問に思い、和平による戦争終結をアメリカ政府に要求するようになる。




まして其の時、太平洋にまだ、強力な日本海軍が存在するならアメリカ政府も国内世論に負けて和平交渉を提案することになったであろう。



従って、大日本帝国が敗北することなく戦後60数年もたってこのような惨めな日本の滅亡の危機に曝されることもなかったに違いない。





参考図書:

吉田俊雄「戦争を動かした30人の提督」光人社NF文庫。2001年8月発行。

吉田俊雄『海軍参謀』文春文庫。1992年11月発行。

吉田俊雄「指揮官と参謀」光人社NF 文庫。1993年10月発行。




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