人は、言葉を定義する事で、その意味が分かったと思い込む。

しかし、言葉は生き物であり常に変化し続けているので、定義した時点で、もうその定義づけは少し古い。

言葉は、動かないものではなく、使った時点で意味が生まれる。

 

身体が理解することが、本当の理解である。身体とは当然、脳も含む。

本当にわかるとは、今、この瞬間に神経に電気信号が流れることである。

分かり合えるとは、互いが同時に同じ感情を起こすことである。

 

ある人の顔の写真を見て、それが怒っているのか、笑っているのかが、わからなかったりする事はよくある。

動画で見れば、どちらの感情なのかは、わかる。

切り取った部分だけ見ても、その時の感情は、理解できない。

 

つまり、意味は文脈で変わる。

 

故に、言葉の意味は一つに定義づけすることは不可能である。

 

「あの人がわからないから、もうあの人とは付き合いきれない」という風潮が強い昨今である。

 

人のココロは、コロコロ変わる。

自分も相手も常に変わり続けている。

だから、「心」の定義づけは不可能である。

 

薬の効き目もそうである。

薬草、化学物質などは、場合によって毒にも薬にもなる。あるいは、毒にも薬にもならない。

「場合による」という事が重要である。

 

大脳は、切り取るという性質を持つ。

つまり、写真のシャッターを押して、その写真をたくさんめくって、パラパラ漫画によって動きを理解している。

 

切り取った部分だけを取り出して、「言葉」というモノが生まれた。

ある一定のかたまりを出力する事で、互いに理解することが出来る。

写真や言葉という切り取った部分を見聞きする事で、互いに同じ情報を共有し、理解できる。

 

科学が先行する社会では、一つの物を分かろうとする事が優先され過ぎて、定義づけばかりに気を取られ過ぎている。

わからない部分を少しあきらめて、わかる部分だけでも共感して互いに楽しむ気持ちが減っている。

 

人は、ミクロの世界を深く追及したり、マクロで俯瞰して見たりを繰り返しながら、身体を使って行動に移す事で検証し、その物事を理解できるようになる。

「自身の行動」という文脈をとる事をなおざりにして、物事は決して理解できない。

「身体に神経信号を流す」という文脈である。


一人の人間が、生命全体を理解する事は不可能である。

 

「わかる事とわからない事がある」という事をまず、わからないと、わからない事にこだわり過ぎるあまり、わからない事の多さに圧倒されて、人は狂いだす。

 

人はあくまでも切り取った一部分しか、理解できないという事をまずは、理解する必要がある。