人は、しばしば、物質として存在する「物」と、事象として起きる「事」を混同する。

また、目には見えないが実体の有るモノと、目に見えるが実体の無いモノを混同して、混乱する。

 

二重計上とは、実際に存在する1個の「物」しか買っていないのに、帳簿上では2個買った「事」になっていることである。

つまり、現実の「物」と異なる「事」が、帳簿上で表されることで間違いが起こる。

 

プラスマイナスやゼロは、「事象や状態」を表すもので、「物質的」には存在しない。

プラスとマイナスは、二者間の相対的関係を表すもので、プラスやマイナスというモノが存在する訳ではない。

マイナスの電位を持ったモノが、プラスのほうに移動する事で世の中は動いている。

 

経済は、二者間で生まれたプラスの利益を、第三者に流す事で回る。

経済では、実体として存在する「物」と、物質として存在しない「働き」を足したり、引いたりする。

 

ケーキ屋が、ケーキを2個作って1個売った場合、ケーキ屋の店先には、「ケーキ1個」+「ケーキ1個分の売り上げ」という「物」が存在する。

それにプラスして、目には見えないが「ケーキ2個を作る労力」という「働き」が存在している。

その上で、ケーキを売る値段によって利益が出たり、出なかったりする。

利益が出ることをプラスといい、次にケーキを作るエネルギーとなる。

利益が出ないことをマイナスといい、この時は、次にケーキを作るエネルギーが出ない。

 

引き算とは、あるモノが、その世界の中から、違う世界に移っただけである。

 

例えば、ケーキが2個あって1個食べると「2-1=1」でケーキは1個になったと考えるのが、正しいとされる。

しかし、これを物質的な視点で見た場合、現実の世界では、食べられた1個のケーキは、人の腹の中に存在する。

地球規模で見た場合、腹の中に移っただけで、この世の中から消えて無くなった訳ではない。

ある一人の視点から見ると、目の前からケーキが1個無くなったというだけで、ある人の中を消化され通り抜けて、形を変えて、何らかの物質として、地球上には存在し続けている。

 

詐欺など、人をだます数字のトリックでよく使われるのが、実体としてあるモノと、実体のないモノを、足したり引いたりして惑わすという手口である。

 

落語の「時そば」では、「貨幣」という実体のある物に、「時」という実体のない概念を足させる事で、そば屋はだまされる。

 

落語の「壷算」では、「下取り」という概念を使って、所有権を混乱させる事で、番頭をだます。

「その店で買って返品した、一荷入りの水瓶」を「下取り」という言葉に言い換えることで、現実には無い架空の3円があるかのような錯覚を起こさせている。

 

つまり本当は、その店で買った品物を返品して、お金を返してもらった時点で、一つ目の取引は、いったん成立している。

この時点では、客と店の間での取引は、プラマイゼロの状態である。

 

ところが、ここで詐欺師は、番頭に一つ目の取引が終わったと思わせないで、次の取引に影響を与えるために、「現物をあえて見せたままにすることで、所有権がどちらにあるかを分かりにくくする」というトリックを使う。

 

「返金してもらった3円」の事実上の所有権は、詐欺師に戻っている。

しかし、自分の財布にしまわずに、目の前に置いたままにする事で、3円の所有権が店の側にあるかのごとく思わせる。

また、「返品した一荷入りの水瓶」も、この時すでに、事実上の所有権は店に戻っている。

しかしここで「下にとってくれるよな」という言い回しを使って、一荷入りの水瓶が目の前にある事で、店に返品したはずの一荷入りの水瓶が、あたかも詐欺師の側に所有権があるかのような錯覚を起こさせている。

 

このように、目の前に現物を見せる事で、貨幣の取引上はプラマイゼロの状態なのに、一荷入りの水瓶の所有権がまだ、詐欺師の側にあるような錯覚を起こさせているのである。

 

このようなトリックは現代でも、両替詐欺の常套手段として、現金で取引する店先では被害をこうむっている。

 

錯覚とは、現実には無いモノを、大脳が勝手に計算して現実に有るかのごとく思い込んでしまう事である。

 

言葉や数式は、現実に無いモノも表現できる。

プラシーボ効果や自己暗示、信仰などは、いわば存在しないモノを存在すると思い込む事である。

 

人は何か苦しい時、自分は病気ではないかと思い込む事がある。

また、たまに、自分が病気をした時、自分という人間が〇〇病という人間に置き変わった、あるいは、悪い霊がとりついたと解釈する人がいる。

そこまでは勘違いしなくても、過去の悪い行いが原因で自分は病気をしているとか、先祖からの因縁で患っているなどと解釈する人は意外に多い。

 

病気をしたからと言って、人間が置き換わったわけではないし、狐や悪霊がとりついたわけでもない。

神経にウイルスなどが侵入すると、異常行動を起こしたりして、人が変わったように感じることがある。

しかしこれは、お化けが憑依するみたいに、何らかの意思を持った「○○病」という物質が人に寄生して、人を操っているわけではない。

症状を引き起こすウイルスや、化学物質などは、小さいから肉眼では見えないが、顕微鏡で見れば、確かに存在はする。

ウイルスに感染すると、ウイルスと自己が戦う過程で症状が出る。

体質や体調によって、症状が出る人と出ない人がいる。

つまり、病気とは、自己が内部で戦っている状態が、表出することである。

病気が治るとは、戦いが治まり、症状が出なくなることであり、悪霊が去ったからではない。


医療機関では、病名に対して保険診療が受けられる取決めがなされている。

つまり、病名が無いと保険診療を受ける事が出来ない。

医療機関での保険診療は、その人全体に保険が支払われるのではなく、病名に対して支払われるのである。

 

ガン細胞が身体に発見された時、病名がつく。

この時点では、自分の細胞が変異した「状態」であり、症状が無い場合は病気とは言わない。

変異したガン細胞によって、身体に何らかの不具合が生じた時に初めて「病気である」と言う。

 

しかし、不具合が生じていても、自覚症状がある場合と無い場合がある。

異変への気づきには個人差がある。

同じ圧力を受けても、痛みに感じる者もいれば、快感に感じる者もいる。

不具合も、放っておいて自然に治癒する場合もあり、この場合は病気になった自覚の無いまま治っており、病気だったことに本人も気がつかない。

 

ここまでを整理すると、「病名」とはカルテ上の情報であり、病気ではない。

不具合が生じて、症状が発症した状態の事を「病気にかかる」と言い、主観である。

「病気」という物は存在せず、罰が当たって病気をするのではない。

症状がないと、人は自分は病気ではないと自覚する。

ウイルスや放射線などは、目に見えないが物質として、確かに存在する。

 

つまり、昔からよく言われるように、「病は気から」で、気持ちが病を生む場合もあり得る。

 

苦しみの原因がわからないのに、誤った認識にもとづいて、薬を過剰に摂取したり、多剤投与したりして、身体を壊したり、死亡したりする事件が増えており、社会問題化している。


存在するものとしないものを混同する事で、人々は混乱する。