物事をカテゴリー分けして整理する時、どうしても分類できないものがあると、とりあえず、「その他」にカテゴリーするか、「ゴミ箱」に入れる。

この、「その他」や「ゴミ」に振り分けられるものを、人類はとりあえず、分から「ない」ものとして、「無」とか「ゼロ」という概念を生み出した。

「有無」というのは、その人の世界観の中に、「有る」か「無い」か、という意味である。

 

この「無し」とされてきたモノの中には、人類にとっては未知の無限の「有」が存在している「かもしれない」。

 

人は、自分の中で「無いな」と思ったら、思考停止して考えない。

日本人の多くが、忖度したり、他人のご機嫌をうかがう事に神経を使い過ぎて、大脳のエネルギーをほぼそちらに使うことに忙しすぎて、余計な事にエネルギーを回す余地がない。

そのため、分からない事は、「無い」に振り分けて、大脳を使わないように省エネしている。

 

日本人が「無宗教」と言われるのは、信仰心が「無い」のではなく、何を信じていいのかが、「分から無い」のである。

 

精神病者と呼ばれる人々は、健常者には見えないモノが見えたり、聞こえたりするので、何を考えているかが読みにくい。

そのため、健常者は精神病者に恐怖を覚える。

かつては、修験者や霊媒師などが、幻覚を見たり、幻聴が聴こえる事は、特殊能力であるとされていた。

幻覚が見えたり、幻聴を聴ける人は、恐怖の対象ではなく、尊敬され神に近い存在として、畏怖されていた。

 

人は、予想できないことに恐怖を感じる。

何が「有る」か、わから「無い」からだ。

そして、自分がやられる前に分から「無い」モノを殺したりして、「無き者」にしようとする。

戦争の多くが、恐怖心から相手を「無き者」にしようとする事が発端となっている。

 

怖がりな人は、ホラー映画やお化け屋敷などで、怖くて目をつぶってしまう。

しかし、我慢して目を見開いてみると、意外と大したことは無く、興ざめするものである。

 

分類できず、「その他」に分類しておいたモノも、後でもう一度見直すと、分類出来たり、新しい項目が出来たりする。

 

今すぐには価値がわからないモノでも、時間が経つと、その価値が分かるようになる事がある。

 

現代は、人体を解剖することなく内臓を見れたり、ゲノムが解析されたり、巨大望遠鏡で遠くの星が見えたりする。

科学技術や医療技術の発展などで、極めて小さい世界から、巨大な宇宙まで、これまで人類が見えなかったモノが、たくさん見えるようになった。

 

今は見え「無い」モノも、本当は「有る」「かもしれない」。

 

今は仲間では無くても、時が経つと仲間になれる「かもしれない」。

犯罪者も救世主になる「かもしれない」。

 

価値が有る「かもしれない」モノを、すぐにゴミ箱に捨てるのは、もったい「ない」。