車は、エンジンの動力を車輪に伝える事で動く。

この時、動力を伝える歯車と歯車の間には、適度な「あそび」部分と、そこに潤滑油が無ければ、車輪はスムーズに動き出すことが出来ない。

適度な「すきま」があることで、動く領域が出来、止まっている歯車を動かすことが出来る。

 

人体は、関節に油があることで、可動域が広がり、スムーズに動くことが出来る。

 

脳ミソも脂が多く、シナプスとシナプスの間に「すきま」があることで、次につながるべき神経細胞を色々試すことが出来るので、ひらめきが生まれる。

脳は新しい体験、発見に快感をおぼえ、その快感を欲してヒトは動き出す。

 

思い通りに行かないという事は、新しいということでもある。

思い通りになっても、ならなくても楽しめる心がないと試す事は出来ない。

失敗を楽しむのが、遊び心である。

遊びの世界では、自分にとっての新しさが正解である。

遊びによって、自己の心が満たされる事で、エネルギーが生まれ、生きる意欲につながる。


正解、不正解は、組織の目的、ルールによって変わる。

近代は、法律という枠組みによって、組織が作られてきた。

 

現代社会は、事実上「金が法律」の世界である。

「金」というくくりで、一つの集団が出来上がっている。

法律は、金の力によって、いかようにも解釈が出来る。

金持ちが、やりたい放題の世の中である。

 

金が法律の世の中では、金をたくさん持つことが正解である。

だから、親たちは、子供に金持ちになるために勉強をさせる。

受験に失敗した者を敗北者として扱う。

そうして勉強に忙しくて遊ぶ時間も、場所も無くなっており、遊べない不幸な子供たちがたくさんいる。

 

多くの人が、金が正解の世の中で生き残ることに忙しくて、心に遊ぶ余地が無く、金にならない、違う価値観の物事を認める余裕が無い。

心に余裕が無いので、失敗した者を敗北者とみなしたり、許さない。

失敗が許されない組織では、遊び心は生まれない。

結果として、遊び心のない人が多く、心の貧しい愚かな金持ちが組織を牛耳って、乱れた社会を作り上げている。

 

かつては、宗教者が庶民の息抜きの場を設けていて、それがサービス業や娯楽産業へと発展した。

日本では、お祭りでテキヤが露店を出していたり、風俗店を含め、あらゆる娯楽産業をヤクザと呼ばれる人々が、になっていた。

こういう人々が、世間と世間の間の潤滑油として、庶民の遊び場を提供し、世の中の役に立っていた。

役人の統治下のルールでは解決出来ない問題、いわゆる汚い仕事もヤクザが担っていた。

 

こうしてヤクザは、かつて社会の役に立っていたが、今では反社会的勢力と呼ばれ、金の世界で財産を奪う者としての庶民の敵であり、存在を認められなくなった。

今では、一般人も反社会的勢力も入り乱れて、金が法律の世界での抗争が繰り広げられている。


産業は、すみ分けることで専門性を増し、他とつながることで体力をつけ、エネルギーを循環させて、全体として発展する。

 

生命は、動力が次の動力を生み、循環する事で成り立っている。

 

そしてそこには、必ず潤滑油としての「遊び」がいる。

 

遊びの無い人類は、生きる意欲をなくし、殺しあって滅亡する。