前後の脈絡から切り離された、切り取り動画が誤解を生んだり、バズったりする事がよくある。

映画や小説など物語性のある作品は、編集の仕方で同じ素材でも全く異なる作品になる。

どのシーンに着目し、どういう順番にするかで、作り手の意図は変わる。

受け手側も、どこに着目するかで、解釈が変わる。

 

人生は分岐点の連続であり、認識のあり方を変えるような大きな分岐点から、日々の記憶に残らない小さな分岐点まで、無数にある。

人生の岐路を振り返る時、あの時あーしたから、あるいは、あーしなかったから、結果が良かった、悪かったと解釈する。

原因と結果の、何を原因としてとらえるのか、それによって、何が結果だったのかは、その人が着目する場面と結びつけ方で、人生の意味は全く異なったものになる。

その着眼点が、個性である。

 

ある失敗した事実を認識する時、行動派の人は、あーしなかったから、ダメだったと解釈するし、慎重派の人は、あーしたからダメだったと解釈する。

やって、だめだった場合、次へのデータが残される。やらなくて、ダメだった場合は、データはゼロである。素材として何も無いので、編集のしようがないし、解釈も出来ない。

 

大脳が発達し始める頃に、認識の大きな変換が起こるので、思春期が人生に多大な影響をもたらす分岐点となることが多い。

思春期までの幼少期に行動制限によるしつけをされた子供と、自分の意思で行動するしつけをされた子供では、大人に対する態度が異なってくる。

やるなと言われて、素直に何もしない子供は、自分で考えない人間になりやすく、何とかして大人の目を盗んで反発してやろうとする子供は、自分で人生を切り拓く人間になりやすい。

 

自分の人生は自分で編集可能である。

切り取る場面とそれがもたらす結果を勝手に解釈すれば、喜劇にも悲劇にもなる。

スーパーヒーローの主人公にもなれるし、目立たない脇役やエキストラにもなる。

今のうちに仕込みをしておけば、つづきが気になって仕方ないような冒険活劇にも出来る。

たくさんの仕掛けをして、この先の人生をアレンジしていこう。