ヒトは、違和感を感じて動く。

身体の感じる連続した変化の感覚=アナログのサインを、神経でデジタル化することで動いている。

 

何らかの原因で体内外からの圧力の変化が起こる事で、電位の変化が神経に伝わり、神経に電気の波が発生する。

波が大きいとき、脳の深い部分がその波を、山と谷として認識する。

この山と谷の電位差により、神経伝達物質が移動して神経細胞へ流れ込み、前後の神経細胞がつながる。

これが違和感として、大脳に信号が伝えられる。

電気信号を受け取った大脳は、それまでの経験を判断材料とし、山と谷の差を快・不快として解釈する。

そして大脳は、快を持続させるか増すか、不快を解消するために行動につなげるか否かの判断をする。動こうと思ったら、信号を筋肉につなげて動かす。

 

つまり、アナログの波を、山と谷として判断し、快・不快として解釈することが、デジタル化である。

デジタル化とは、オンオフの判断である。

圧力の波を感知して、電気を通すか通さないかの判断をしている。

そして、大脳が筋肉を動かして行動するかしないかの決断をしている。

 

神経回路をつなげるか、つなげないかは、最初の段階では、本能的に自動的に進むが、行動に移すか否かの判断は後天的学習による。

行動に移し、試す回数が多いと、神経がつながる回数と本数が増えて、神経回路がたくさん出来あがる。

すなわち、経験が豊富とは、判断回数が多い事でもある。

だから、実際に動いて多様な経験をたくさんしなければ、違和感への気付きや、判断力は培われない。

 

動物に神経があるのは、動くために出来上がってきたのであろう。

 

また、デジタル化のもう一つの側面として、主観の客観化がある。

無意識の意識化であり、他者との共通認識の獲得である。

無意識の混沌とした世界が、分類する事で整頓され、意識化される。

自分の意識にのぼらない、ぼんやりとした違和感や、何かわからないないけど苦しいとか、他者には理解してもらえないわびしさなどといった、グラデーションがかった感情を、どこかで境界線を引き、区切ることで、輪郭がはっきりと見えてくる。

そうして違和感というあいまいな情報が、整理された形で自分の意識にのぼり、他者にも伝わる。そうすることで、その情報の取捨選択がしやすくなる。

 

客観化、意識化とは、自分の主観世界を他者と共有したいという気持ちであり、共通認識を持ちたいということでもある。

言い換えると、同じ意識状態を持っている事を互いが認識して、分かり合いたいという気持の表れである。

 

共通認識を得るには、共通の分類方法のツールが必要となる。

ツールとは、例えば数値や言語、芸術、スポーツなどである。

 

お互いが全てを分かり合うことは不可能だが、共通の言語を持つ者同士は、その言語を通して言語化が可能な部分に限っては、相手の気持ちを理解することは出来る。

 

共通の言語を持たなくても、人類共通の表情というツールを持っている者同士として、苦しみや喜びという感情は理解できる。

ヒトは顔の筋肉に感情を表すことで、感情を表情化というデジタル処理をすることで、大脳を発達させてきた。

 

要するに、苦しみを皆で分かち合い、乗り越えて喜びに変換するために意識が生まれたと言ってもいい。

つまり、助け合う行動を繰り返して、大脳が進化したのである。

 

だから、自分が助かりたい、人を助けたいと思ったら、助け合って動くこと。

動くためには、大脳を働かせなければならないので、大脳に血流を送るための温かさと栄養が必要となる。

そして、疲れたら大脳を休ませて判断力を養わねばならない。そのためには、暖かめの場所で横になって安心して眠ることが必要となる。体温を下げて深い眠りを得るには、横になって休む必要があるからだ。

 

助けたくても、そこに助けに行けないなら、助かるために動けるようにするためのエネルギーの支援をする。

あるいは、人助けのために動く人を支援するといい。

 

ヒトは助け合うことでデジタル化が進み、大脳が進化する。人を喰らう魔族は進化しない。