物質と現象は、現実であり、すなわち「有」である。

人の意識が創り出したものは、非現実であり、すなわち「無」である。

 

つまり、言語、概念、空間認識も非現実であり、無である。

 

空間認識の一種が時間認識ではないか。

 

時間を刻限、時を刻むとも言う。つまり、太陽や月との関係から、1日とか1年とかの大枠を単位として決めて、そこから刻んでいって1秒、1時間という仮の単位を創り出した。これが、人間の言う時間である。

 

意識の現実化すなわち、目的遂行には、その目的遂行の道筋の中の、どの位置に今いるのかを認識しなければならない。そのために、時間という概念が生まれたのだろう。

 

これによって人は、人間の寿命を一個体の一生という単位のどの位置にいるのかを認識するようになった。年齢であり、死である。この観念に人は苦しむ。

 

幸せという幻想を実現化するための時間認識によって、人は、かえって苦しむというパラドックスをかかえている。しかし、この幸せ苦しみは、無である。これが仏教のいうところの「無」ではないか。

 

人間は「無」によって突き動かされ、喜んだり苦しんだりしながら、一個体としての「有」である人間を創り続けている。