仏教はインドのヒンドゥーと同じくバラモン教をベースに誕生した。ヒンドゥーは神様と融合(融合の語源はヨーガ=合一する)して悟りを得た聖者たちの教えを大切にしてきたし、長い歴史の中でインドの支配者の庇護する宗教が仏教やイスラム教やキリスト教に変わっても、何千年もの間、師から弟子へと脈々と『鍵』は受け継がれた。

イギリスからの独立にもヒンドゥーの『アヒンサ=非暴力』で戦い、遂に過酷な植民地からの独立を勝ち取った。

前3世紀のアショーカ王の仏教を利用した国の支配〜12世紀からのイスラム支配〜18世紀中頃からのイギリス・キリスト教支配を経て、なんと2200年ぶりにヒンドゥーは現代の表舞台に返り咲いた。

現在はインド国民の7割がヒンドゥー。15%がムスリム、8%がクリスチャン。仏教徒はわずか0.5%でしかも殆どがアウトカースト主流のアンベドカール新仏教。

仏教の中でも古い歴史を現在まで踏襲しているチベット仏教(密教=小乗仏教)を見るとダライ・ラマの自伝では、モンゴルから着いてきたとされるドルジュダグデンなど2つの神様を専門の人間に憑依させて、様々な重要事項を決めている。

ダライ・ラマはドルジュダグデンの言葉を聞いて脱出する日時や経路まで決めたのだ。また、出発前には寺院内にあったマハーカーラ(偉大な黒い者=シヴァの別名・日本の大黒天の由来)の像に白い布を捧げて脱出の無事といつか帰還できる事を祈っている。

このこともあり、日本の仏教寺院でも特に密教系の寺院では大黒天や吉祥天が祀られていたりするし、仏像の後ろに密かに天照大神など神道の神様が祀ってある事も少なくない。

しかし、一部の仏教では神様の存在を頑ななまでに否定している。

これはインドから中国を経て仏教が伝わった影響も大きいかも知れない。

宇宙を含む自然には現在の科学では解明できない人智を超えた力や法則がたくさんある。

決して裁かない『愛である神様』を頂きに置いたヒンドゥーの優しさ・懐の深さ・合理性は疲弊した現代人にも受け入れ易い。

元々光り輝き純粋である『滅びることの無い魂』が、肉体をまとう事によりこの世に生まれて寿命を得て『死』に至る。

人の生涯の中で果たされるカルマ(業)もあるが果たされないカルマ(業)もある。

カルマはその語源カル(行い)の通り自分の行いが原因となり次のカルマを生み出す。

誰だって良いカルマで過ごしたい。

その為には今の言動・リアクションを冷静に見つめて次のカルマを良くするように努めるのが一番だが、カルマは潜在意識や無意識層にまで深く織り込まれている。

表層意識だけであれこれ偽善者ぶってもなかなか結果は出ない。

なぜなら、カルマの全てが欲望により支配されているからで、この『無意識・潜在意識下の欲望』に表層意識を用いていかに気付き、解決していけるかに

『いかにカルマを果たして魂を磨けるか』

が掛かっている。

人の肉体は『滅んでしまうもの』

一生かけて人は何らかのカルマを果たし、残りは輪廻を経て、新しい肉体に魂が宿り、前世の続きを行う。

輪廻を通して数知れない生まれ変わりの中で

『カルマ(宿業)に向き合いながらカルマを解決してゆく過程で魂が磨かれて神様の次元に上がってゆく』

のがインドの昔からの考え方だ。

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