【ヴィパッサナー瞑想】

〜スワミ・ニランジャンアナンダ・サラスワティ

ヨーガが、特定の伝統を意味するように、

ヴィパッサナー瞑想は、

特定の伝統に属しています。

人の中には、

甘さと塩っぱさを混ぜ合わせて、

その味を楽しむ事が出来る人もいれば、

甘い物は、甘い物、

しょっぱいものはしょっぱいものとして

それぞれの味を

別々に楽しむ人もいます。

これら2つの伝統の教えのゆく道ややり方を、

あれやこれやと案ずる限り、

この2つは

ことごとく、別物であり続けるでしょう。

同様に、

ヴィパッサナー瞑想

もしくはヴィパシャナ(vipashana)は、

心の静けさに到達するために、

ブッダが使った

古いヨーガの練習法です。

ヴィパッサナーは、

修行(tapasya)や、

質素さ、厳格さの一部となります。

修行と瞑想の過程においては、

修行者が、

人々との相互関係を一時的になくしたり、

食事に制限を設けたり、

会話のキャッチボールをすることや、

一方的に話す事が

制限されたり、

通常のコミュニケーションから

切り離されたりする事があります。

人はただ、

静けさの中に暮らし、

彼らの心と、

自らの自然さを

見つめます。

ある人々にとっては

静けさが心地よいものになるのと同様に、

またある人々にとっては、

その個人の自然な傾向から、

静けさが苦痛にもなります。

話すことは人の自然な傾向なので、

黙っている事を練習すると、

それは新たな体験となります。

人々は、

静けさを楽しむようになり、

「私は誰とも会話しなくても大丈夫だ。

ただ静けさの中におり、

己を見つめよう。」と言うでしょう。

これが、

こんにち、人々がどのように

ヴィパッサナーを見ているのかという事です。

ブッダが

ヴィパッサナーの練習を使った時、

ヨーガの練習、つまり、

アンタール・マウナ(antar mouna=内的無口)の

プラティヤハーラ(意識の投げ出し)の練習として、行いました。

ヴィパッサナーは、

プラティヤハーラの練習であり、

瞑想自体である、

ダーラーナや、デャーナの練習ではありません。

ブッダ時代の言葉はサンスクリット語ではなく、

パーリ語であり、

文字も異なっていました。

アンタール・マウナは、パーリ語で、

ヴィパシャナ(Vipashana)と訳されました。

ヴィパシャナの意味は

パシャ、つまり、

見ること、観察する事で、

ヴィ(vi)は、独特のと言う意味です。

ようするに、

独特の観察法という意味です。

アンタール・マウナもまた、

独特の観察法であり、

思考の観察、

考えを止めること、

何も考えない域に入る事です。

アンタール・マウナとヴィパッサナーは、

同じものです。

【練習と応用】

それぞれの先生達は、

それぞれ独自の

信念、理解、そして体験に基づいて教えます。

こんにち、

ヴィパッサナーは、1週間や10日間といったリトリートで、教えられています。

人々は行き、

人里離れた場所に暮らし、

他者と喋らず、

ヴィパッサナー瞑想以外は何もしないで過ごします。

彼らは、ただ、

静けさを保ちます。

人々は、それをリトリート(世俗から引っ込むこと)だとみなしますが、

リトリートは瞑想ではありません。

瞑想は、

例えそれが、

自分の部屋の中であろうと、

隔離・絶縁されている状態、

世界のどこであろうと、

行う事が可能な練習です。

リトリートは、

何らかの集団が

それなりの団体の面倒を見る形で、

開催されます。

よって、リトリートは、

短い期間で、

より集中的です。

しかし、

一旦、ヴィパッサナーの基本的な原理が習得されたなら、

練習者は、

毎日の練習に、

それを組み込むべきです。

それが、

より上級なアンタール・マウナです。

練習としてみなす限りにおいて、

ヴィパッサナーとヨーガのプラティヤハーラに、

違いはありません。

しかしながら、

伝統と応用については、

あらゆる内的な活動、

すべての内的な思考を止め、

ただただ、

静寂の状態を体験する事により、

スーンニャタ(shoonyata)つまり、

思考しない状態を体験する為の、

ヴィパッサナーと

上級のアンタール・マウナは、

別物として、

仏教信者は使っています。

【切り離しと超越】

その静寂、無、スーンニャータの状態は、

プラカーシャ(prakasha

=全て明かされていること、

光明・光輝)を体験する為の

先駆け、もしくは前提条件です。

スワミ・サティヤーナンダ師は、

スーンニャータとプラカーシャ、

つまり無と光明、

そして、

それら2つの異なる意識の状態について、

彼のサットサンガで、

何度も語っています。

スーンニャタでは、

感覚的なもの全てから

切り離されます。

せそこでは、

心は、どこにも

引っ張られません。

心が静止し、

その静止した心の自然さが、

ブッダによって、

何も見えない、

全てが停止している場所、

ニルヴァーナとして、

定義されました。

スーンニャータ、

つまり

無、もしくはニルヴァーナの

停止した

何もない

切り離しが起こっている場の

状態を超えたところに、

超越した自然さはあります。

それは、

熱望者を、

超越した自然さを

体験を通して理解する、

つまり悟りを得るための、

さらなる一歩を歩ませます。

スワミ・サティヤーナンダ師は、

仏教は、

練習者を、最終的に、

感覚と感覚の対象物から、

分離させる、

つまり、練習者は、

無を体験すると語っています。

しかし、無を超えると、

この無が、

練習者の粗雑な(肉体的な)自己を意味することから、

練習者は、

その人自身のハイヤーセルフと繋がるのではなく、

超越した存在と繋がらなければなりません。

つまり、

(神様的な存在である)

超越したハイヤーセルフと繋がる事が

光明であり、

低い自己から切り離れる事が、

ニルヴァーナです。

仏教の伝統は、

練習者が

平安と、

もう何も望まない体験をしている時、

低い自己から切り離されている事へ

上昇すると語っています。

ヨーガの伝統は、

もう一歩踏み出して、

無と切り離された状態を超えたものが、

超越した実在、

スーパー・セルフ、

スーパー・コンシャスネスの存在であり、

それと繋がる必要があると言っています。

【禅】

禅の瞑想は、

ある種の定義付けられた意識の

表現もしくは振る舞いと

修業者が

リンクされていない、

抽象的な瞑想です。

彼らは、

修業者に、

様々な印象やヴィジュアライゼーションを

自覚意識させます。

禅の瞑想は、

開眼に到達する事を目的にはしておらず、

人生において

修業者にストレスを与える対象へ、

どのように取り組めばよいかを目的としています。

それが、

禅の瞑想の目的です。

一旦、

過程を通って行けば、

恐らく、

その静寂で、

堅固で、

1つになった状態の中で、

修業者は、

地球と絡み合ったものと

一体となる体験をする事が出来ます。

禅の瞑想は、

様々なヴィジュアライゼーション(視覚化)

様々な理想、

様々な概念、

繋がることに

自覚意識を置いている間は、

地球を取り巻くものと

一体となります。

全ての瞑想が、

練習者を同じ地点や

同じ距離に導くわけではありません。

それぞれの瞑想が、

人の表現と行いの

独特な領域に作用します。

仏教徒にも、

中国人にも、

シヴァ派にも、

ヴィシュヌ派にも、

キリスト教徒にも、

イスラム教徒にも

全ての伝統に対応出来る

ただ一つの完全な瞑想のシステムは、

ありません。

ただ、

心の動的な状態から、

平穏な状態へ

焦点が動いてゆくという事です。

練習者の努力や修業は、

プラティヤハーラとダーラーナ

つまり、

感覚の投げ出しや、切り離しと

集中、焦点を絞ることを

得るためにあり、

ディヤーナ(dhyana

アートマンを体験を伴って理解すること。


ブラフマンとの融合)の為ではありません。

それは、

練習者が求められる鍛錬(トレーニング)であり、

一度そのトレーニングが

完璧に会得されたなら、

瞑想は、

自動的に、

自発的に、

自然に体験されます。


18-Oct.-2015  Ganga Darshan, Munger, Bihar


  サティヤーナンダ /  ビハール・スタイル・オブ・ヨーガ 東京