妙見信仰を知ったのは5年ほど前のこと。

 

京都の船岡山にある建勲神社を訪れた後でした。

建勲神社は織田信長を祀る神社ですが、何かもっと詳しく知りたいような気がして調べていました。

 

船岡山は四神が配された京都洛中の北にあたり「玄武」の位置となるそうです。

 

建勲神社の境内には船岡妙見社があり、玄武が祀られているとのこと。

 

 

 

「妙見」という言葉が妙に引っかかり、調べてみました。

 

妙見菩薩のWikipediaを確認すると、「北斗七星と関係が深い」ことや「仏教においては天部(天使)に分類される」「平将門と関係が深い」などと書かれています。

 

当時は、妙見信仰とは結局のところ何なのか良くわからず、「保留箱(頭の片隅)」に入れておこうと思いました。

いつかのタイミングで必要な情報が齎されるのだろう・・・そう思ったからです。

 

 

 

それからしばらくして妙見本宮とも言われる千葉神社を訪れました。

金満な雰囲気の漂う神社、これが私の正直な感想です。

神社周辺の氣も荒れていて、あまり良い印象を受け取りませんでした。

 

千葉神社には、天之御中主大神、経津主命、日本武尊が祀られています。

当時はこの三者が誰を表しているのかはわかりませんでした。

 

しかし後に覚醒が進み、あらゆる情報と自分の感覚を照らし合わせると見えてきました。

 

アメノミナカヌシはスサノオであり、フツはスサノオの祖父であるフツだろうということ。

そして、ヤマトタケルは大国主(ニギハヤヒ)であることがわかりました。

 

出雲族が日本へ渡ってきた時の族長がフツであり、後にフツから孫のスサノオに族長の座が移り、そして、その立場はスサノオの息子のニギハヤヒ(大国主)に譲られたということでしょう。

 

 

 

要するに千葉神社には、出雲族を代表した代々の男たちが祀られているようです。

千葉のあたりが出雲族と関係が深い土地であったことがわかります。

 

そのような神社でありながら「妙見本宮」という名が付いています・・・

私の感覚では出雲族と妙見という言葉が全く重なりません。

 

しかし、当時の私には理由がわからなかったため、また「保留箱」に入れておきました。

 

 

昨年のこと。

だいぶ解放・覚醒が進み、アトランティスやトート・ヘルメス(=ニニギ)について意識を向けさせられていた時のことです。

 

茨木の筑波山神社を訪れました。

神社参拝後、ロープウェーで山頂に向かい、山を満喫し下りてきました。

 

駐車場へ戻るために階段を下りていると、「平将門公史跡」と書かれた柱が立っています。

草木に埋もれていて、字も読み取りにくい・・・ぞんざいな扱いをされているのが伝わってきます。

 

私の感覚が強く反応し気になったため調べてみました。

あるお寺の御住職のブログに辿り着きました。

その方は平将門と妙見菩薩について長い間調べていらっしゃるそうです。

 

リンクを貼らせて頂きます。ご縁に感謝をこめて。

 

 

 

こちらの記事でも「将門と妙見菩薩の伝承は、調べてみれば見るほど歴史的に合わないような気もしています」と書かれています。

 

私も全くもって同感です。

様々なことが見えてきた今ならば、将門と妙見信仰の間にどのような関係があるのかを説明することができます。

 

そして、このお寺の御住職は、「妙見菩薩と信仰」について大変熱心に研究をされてきたそうです。

「妙見菩薩と信仰」をまとめたものを公開してくださっています。

 

 

 

こちらを読み始めると、射抜かれるような感覚があり、思い出したような感覚を得ました。

こちらの記事がもつエネルギーが媒介となり、私に気づきを齎してくれたように感じます。

 

妙見信仰とは「トート信仰」なのだと気づきました。

 

長くなりますので、次の記事で説明したいと思います。

 

 

 

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先日の五重塔の記事にも書きましたが、闇側の者たちはとても巧妙に隠しながら、そしてあらゆる方法で「トート=ニニギ(もしくはニニギの他の姿)」を各地に祀ってきたのだと思います。

 

妙見菩薩がどのような存在であるのかを深く理解している人は、それを祀る神社仏閣に関わる人であっても、ほとんどいないのではないでしょうか。

 

それほど巧妙に、あらゆる姿で「トート=ニニギ」を祀ることを広めてきたことがわかります。

 

要するに私たちは「その物事の本質」をよく知らないままに、それらを行ったり、それらを信じ込まされたり・・・というように仕向けられてきたようです。

 

例えば「節分」が良い例ではないかと思います。

 

「鬼は外!」と追いやられる鬼は、赤と青の身体をしています。

 

これまでに書いてきたように、赤はスサノオ(サナト・クマラ)のエネルギーの色です。

そして、青は大国主(=ニギハヤヒ=サナンダ・クマラ)のエネルギーの色です。

 

要するに、赤鬼はスサノオを、青鬼は大国主(ニギハヤヒ)を表しているのだと思います。

 

豆を鬼に乱暴に投げつける行為は、出雲族を貶める行為でもあり、出雲族に対する「呪」を目的として創り出された風習ではないかと感じます。

 

そして、いつのまにやら全国区の行事となった「恵方巻」

この行いの起源は大変「怪しげな行い」が元となっているようです。

私は自分の感覚がこの行事に気分の悪さを感じるため、一度も恵方巻を食したことはありません。

 

「感覚」というものは、思考ではなく、ハートが発するものですから、それをキャッチし活かしていくことがとても大切です。

「感覚」とは「霊的な直感」と言い換えても良いでしょう。

「思考」ではなく「ハートが発する感覚」こそ「本来の自分」であることを認識することが大切です。