369ネタでもう少し書いておこうかな・・・ということが浮かんできたので記事にしたいと思います。

 

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京都市在住のミロクさんの呟き。

 

「皆さん、菩薩、菩薩、言わはりますが、どちらか言うたら、私、明王系ですわ。」

 

ミロクさん、めっちゃ不満そうですね。

ぶつくさ感が半端ありません・・・

 

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弥勒と言えば、京都広隆寺の弥勒菩薩像が有名ですね。

国宝第一号とか?

なるほど。なるほど。

 

しかし、この弥勒菩薩の像、以前の記事で示した「369」の姿とはかけ離れた姿をしています。

 

 

「369」は、クマラ五兄弟のみが成し得るであろう特殊な統合状態であり、三者のエネルギーが融合した状態であることを説明しました。

 

 

 

 

私から見ると「ツッコミどころ満載」の弥勒菩薩像。

私なりの解釈を記したいと思います。

 

強調しておきたいのは、あくまでも私個人の見解です。

 

「369」はクマラ五兄弟のみが成し得る特殊な三者の統合状態であり、それを描いた姿としては、修験道で祀られる権現や不動明王、シヴァ神などが挙げられるということを以前の記事に書きました。

 

ツインソウルやツインレイなど、統合について少しでも情報に触れたことがある方であれば想像できるかと思いますが、統合という状態を迎えるにはかなりの覚醒が進んだ状態でなければなりません。

 

言い換えると、これまでの人生、そして過去世において、付着してしまった魂の汚れを落とし、本来の美しいエネルギーの状態まで波動を高めることが求められます。

魂の汚れとは、不要な価値観であったり、恐れ、不安、その他諸々の低波動のエネルギーを意味します。

 

それらを解放し続けると、本来の魂の輝きを放つきれいなエネルギーになっていきます。

言葉にすれば簡単ですが、魂の状態により近づける、エネルギーの純度を高めて行く過程は、長期間を要し、とても大変な作業でもあります。

 

そして、特殊な統合状態である「369」の状態になるには、ツインレイなどの統合などよりも遥かに過酷な過程を経ると考えて良いと思います。

 

さて、弥勒菩薩ですが、「菩薩」というカテゴリに入れられています。

仏像には、「菩薩」「如来」「明王」などの種類があります。

 

「菩薩」は、求道者の段階にあることを表しています。

要するに、霊的な道を歩んでいるけれど、大きな覚醒を得ていない状態と言って良いでしょう。

 

「如来」は、悟り(大きな覚醒)を得た状態を表しています。

如来のヘアスタイルのお団子頭は、肉髷(にくげい)を表しています。

クンダリーニが上昇した人の中には、このように頭頂部が盛り上がる人がいます。

 

「明王」は、ヒンドゥー教の影響を受けた姿で、正しい道(覚醒への道)を選択しない人々に対しては憤怒の姿をもってでも、正しい道へと導く存在を表しています。

 

「369」という特殊な統合状態にある・・・ということは、当然のことながら「菩薩=求道者」の状態にあるのではなく、悟り(大きな覚醒)を得た状態にあります。

 

ですから、弥勒が「菩薩」のカテゴリに入ってくること自体に大きな違和感を感じます。

 

「369=みろく」と呼ばれる存在は、求道者の状態にある者ではなく、悟りを得た状態で、かつ特殊な統合状態にある者を指します。

それは、究極の覚醒状態と言っても良いでしょう。

 

 

そして、弥勒菩薩の仏像を安置する代表的な寺として、Wikipediaでは数か所紹介されています。

 

 

 

その中から私のアンテナに引っ掛かった3つの寺があります。

広隆寺、中宮寺、野中寺。

 

まず、広隆寺の弥勒菩薩像は国宝に指定されていますから、最も有名なのではないかと思います。

広隆寺は秦氏の氏寺です。

 

秦氏は、出雲族と対立し、日本の地の重要なエネルギースポットを封印していった日向族の流れを汲む人々です。

出雲族はアセンションに導くための国造りを行った人々と言って良いでしょう。

日向族はそれに対抗した人々です。

 

 

 

 

日本の地の重要なエネルギースポットを封印した・・・ということは、言い換えると、アセンションの流れを邪魔した人々と言って良いでしょう。

そして、それらの行いは現代にまで続いていると言って良いでしょう。

 

宇宙の存在であるアーリオーンは、出雲族と日向族の対立は、現在にまで続いており影響を及ぼしていることを指摘しています。

 

このような秦氏の氏寺に、「369」の真の姿を表した像を安置するでしょうか。疑問です。

 

そして、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、右手で印を結んでいますが、これは思惟手というそうです。

見方によっては「666」にも見えますね。

「666」は獣の刻印ですね。

 

 

 

「思惟」の意味は、思考です。

弥勒菩薩半跏思惟像は、何やら思い悩んでいるようにも見えます。

 

覚醒が進んでくると、思考はエゴであるということが腑に落ち、思考に支配されることが減っていきます。

 

覚醒が進むと、何か選択や判断が必要な時、ハートが発する直感に従うことが出来るようになるため、思考を頼らなくなります。

思考と直感の使い分けが上手になっていくんですね。

故に考え込む、思い悩むということはなくなっていきます。

 

「369」という究極の覚醒状態にある者が、「菩薩」として表され、思考に支配された姿で描かれていることに大きな違和感を感じる・・・ということがご理解いただけたでしょうか。

 

「だって、この仏像、国宝でしょう・・・?」

と思われる方もいるでしょう。

 

国宝というシステムはいつから行われているのでしょうか。

 

 

この一覧を見る限り、明治以降であることがわかります。

明治維新は闇側のクーデターです。

 

明治以降、本当の「369」の姿を表した既存の仏像を廃仏毀釈により全滅に近い形で破壊し、本当の「369」の姿ではない仏像を国宝に指定したということも考えられなくもないでしょう。

 

そして、野中寺の弥勒菩薩像は、「666年作」だそうです。

下記リンクのページで紹介されています。

 

あれ?また「666」だね?考えすぎかな。

弥勒菩薩半跏思惟像みたいになっちゃった。笑

 

 

 

そして、法隆寺近くにある中宮寺・・・

長くなってしまったので次の記事で書きたいと思います。