宝塚はマンガ小説を劇化するのを数多く果たしています
有名なのはベルサイユのばら、風と共に去りぬ等
マイナーなところでは、紅はこべ、赤と黒などなど
近年の話で二度と再演されないだろう2作品について書きます
以前も詳しく書いてはいますが、今回は興行側の事情のためか、それとも作家が作品を馬鹿にしているのか、どちらなのかのお話です
文豪ツルゲーネフの名作「はつ恋」
先年パワハラセクハラで退団したゲイネタ大好き原田氏の作品です。
最初に言っときますが上演された作品はあらすじを知ることさえできないほど原型を留めていません。ツルゲーネフ原作と言っていいのかというくらいのものです。改変でなくで別物です。
主人公は少年期から青年期への移行期のウラジーミル。
隣人で年上のジナイーダに恋をしている。ジナイーダは沢山のの男の心を翻弄する小悪魔的女性だった。ジナイーダに夢中になったウラジーミルは彼女に恋人がいるという噂から夜半暗がりに潜んで彼女の家を伺っていた。そこに現れたのはウラジーミルの父だった。
ウラジーミルの父は男前だったが貧しく、かなり年上で家付き娘であったウラジーミルの母と結婚した。だから父には自由になる財産はなく母に頭が上がらなかった。
間もなくしてウラジーミル一家は引っ越すこととなる。
がジナイーダはウラジーミルの父に会いたくて追ってきたのだった。
父とジナイーダの密会に出くわしたウラジーミルはそこで信じられない光景を目にする。怒っているような様子の父が、ジナイーダが差し出した手のひらに、乗っていた馬にくれる鞭を打ったのだった。その時のジナイーダの恍惚とした表情にウラジーミルは恋愛の何たるかを垣間見る。
やがてしばらく時が立つと父は病に倒れ母にジナイーダに幾ばくかの金を送ってくれと懇願して亡くなった。
ウラジーミルはジナイーダが結婚したことを知り会いに行こうかと思うが日々の生活に忙殺され忘れてしまった。その後会いに行くとジナイーダは急死した後だった。
上記が原作のあらすじです。
これがどういうわけか
思い合っていた若い二人に
ウラジーミルの父が金の力で割って入るという話に変更されている。
ウラジーミルの父は色男金と力は無かりけりを地で行く男で愛人に金を送ってくれとみっともなくも細君に懇願するような男であるはずが
札びらで顔を叩くような真似をして若い女を自由にするという話になっている。
原作の肝は、ウラジーミルの父に鞭打たれて恍惚の表情を浮かべるジナイーダを見たウラジーミルの動揺にある。これこそが男女の恋愛の不可思議な本質だと感じるところにあり、少年が失恋と共に大人になっていく話なのです
どうして改変されたのか
客がバカだから(失礼)
こういう人の心の機微、少年の心のひだを描いた作品が(だからこそ名作なのですが)韓ドラや大映ドラマに侵食された単純脳には理解が追いつかないと考えた興行側が単純な叶わなかった初恋話にしたかったのではと予測します。
私はヅカファンが、そこまで頭悪い人ばかりと思いたくないのですが、
近年の「客バカにしてんのか?えええ?」みたいなよく取材もしないで書かれた初恋礼賛韓ドラみたいな作品がかかって、「泣けた」とか評判とってるのみてると、劇団が「こういうの好きなんてバカすぎ」と思っても仕方ない気は多少はしますよ。
原作では、ウラジーミルという少年がジナイーダに夢中になり思いを募らせる
しかしジナイーダは彼を洟にも引っ掛けてもいない。
それではマズイ。二枚目のスター様はそれではいけない。
二人は思い合うそして悲恋に終わらねば。
そう劇団が考えたのか、演出が考えたのか
どっちにしろ客だけではなく演じる役者もバカにしているような
私は演じる生徒さんたちは当然バカじゃないし、人の心の襞を、名作の陰影を表現できると思っています。素晴らしい名作の中の人物を体現できると信じているし、それは演技者にも大切な糧になると思うのです。
劇団がそういうアホなこと考えたのだとしても演出は何故抵抗しないのか
まさか自分の実力を文豪以上に慢心しているのか
生徒のことを「お嬢さん芸では難しいのは無理」とバカにしているのか
ここまで原型をとどめぬほど改変するならゲイネタスキーのオリジナル作品として出せばいいのに文豪の御威光が欲しかったのか
生徒さんたちには失礼な話だと思います
続きます