大河ドラマ館のある韮山時代劇場(韮山文化センター)の南端を西に国道136号線に向かい

国道を渡ると古刹がいくつもあります。

光照寺の横を西に行くと左に伝政子産湯の井戸、右に伝堀川御所跡があり

(道々本当に道が合っているのか不安になるほど田舎ですが、今は大河ドラマのせいで地図持った人がうろうろしてます)

さらに西に行くと狩野川にあたります。左に少しだけすすむと守山西公園が左にあり、

その手前が円成寺跡(北条邸跡)の入り口です。

 

めっちゃのどかです。旧跡のほとんどがなんということもないくらい何にもないです。

ここで北条三姉妹や義時は生まれ、時政は最期の時を迎えたのでしょう。

ドラマの始まりの頃、家族が楽しく過ごした場所であり、先日は時政が牧の方よりさらに若い後添えと過ごして、オヤジドリームを実現させていたのもこの場所でしょう

近くには政子の産湯を汲んだという伝承の井戸があります。

 

平安期の家って夏暑くないかということを念頭にしているためか作りがそれほど堅牢とも思えないのです。遺っていなくても仕方ないと思います

 

当時も田舎だったでしょうけれど、今だってかなりのド田舎です。

北條一家はこのようなひなびたところで生活していたのです。

↑の北条邸跡のある守山のふもとは、狩野川のすぐ近くです

川向こうにも丘がありましてその向こう側は江間の苺畑です。

このあたりには橋がないので川の向こう側に行くのには橋まで回り道になります。

 

江間には義時の邸跡の石碑がある江間公園がありますが、江間公園付近は本気で何もないです。

義時は元服後の伊豆に在住していた頃、郷妻との間に、安千代という男児をもうけたという伝承が江間にあります。

義時が元服した時分は田舎の豪族の次男坊ですから、立派な正室を迎えるという発想はなかったのかもしれません。元服後は郷妻と長男安千代と共に、領地となった江間の地で鎌倉に入る17.8歳ごろまで暮らしていたようです

 

こんなに何もなくて観光地とさえ言えないところですが

この北条邸跡は墓参りより訪れていただきたいところです。

一番ドラマの舞台になった場所をイメージできるところだからです。

 

頼朝が食べた姥が餅(成願餅)は蛭が島公園で食べられます。

蛭が島公園は狩野川の中州と思われているようですが

比定地は韮山時代劇場南側の整備された広い歩道を 東に7分ぐらい歩いたところにあります

無料休憩所でお餅が食べられます。

海苔を巻いた焼いた草餅でお醤油味です。二個で200円でした。緑茶は無料です。

お昼は土日は激混みの様です。大河ドラマ館がやってるうちはかなり混むと思います。

普段は観光客もほとんどなくて人のいないところです。

 

でもここから政子と頼朝が走湯山(当時の伊豆山権現/りくがイケメンのお坊さんに会いたいと言っていたところ)まで行って逢引したとは到底思えず…

三島までは平らな道ですが、

韮山から宗時の死んだ平井までだってなかなかの坂道なんですがそれどころじゃないような山です

まだ牧の方の兄が住んでいた沼津大岡の方が行きやすいと思います。

 

北条邸から八重姫が身投げした古川までは少し南に行ったところです。近いですが今回は行きませんでした。