自覚症状も全くなく、

元気な女子高生16歳の私に告げられた検査入院の指示。


理解不能、意味不明であった。


しかももうじき選抜の大きな大会を控えていた。

夏休みだから授業もないし、入院しようと思えばできたが、


16歳の私は弓道をとった。

良かったか悪かったかなんて問い詰めても無駄なのでしない。

そのときの自分が決断したことを未来の自分が責める資格はない、


検査入院は冬休みにすることにし、先延ばしにした。

そして選抜の大会にもでた。



それから冬休みまで部活は続けた。



冬休み、

私は1週間検査入院した。


名前は「腎正検」



腰に麻酔を打って、

腰から大きな注射みたいなもので腎臓の組織の一部を取って検査するものである。


その腎臓の組織をみて自分の腎臓の病気の状態がわかるというものである。




その注射をうったあとは

体を極力動かしてはだめで、一晩寝返りもうってはいけないし、

トイレもいけなかった。

だから、穴に管を通され、ずっとベッドの上にいた。



不安でたぶんいっぱいだったとおもう。




しばらくして、

医者にいわれたことは


すぐ入院してステロイド治療と扁桃腺を切る手術を行え


とのこと。


ほっておいたら5年もいきれない

透析確実

腎臓の4割は機能してない。つまり死んでる




IgA腎症でした。

すべての変化が一日を境におきはじめる。



私は高校に入り、健康体として(とおもいこんで)

部活にはいる。


部活は弓道部。


この都道府県の強豪校であり、厳しい部活であった。



筋トレの毎日。

ストレスの日々。



自分を責めるのが得意な私は毎日自分を追いつめた。

痛めつけた。


もちろん学校での友達はたくさんいて、

部活以外のときは毎日笑顔で元気にすごしていた。

クラスが3年間一緒でとても仲が良かった。



それでも部活を一日もさぼることなく、

部活の日々は過ぎてゆく。


府の選抜にも選ばれ、弐段もとり、

やっと弓道が自分の中で上昇気流にのった矢先のことであった。



毎年ひっかかる尿検査。

高校1年のときはまた同じように血液検査だけやって結果おーらいで終わることが

予想されてたこと、さらに部活を理由にし、休む暇がなかったので

検査にいかなかった。これがのちに悔やまれることとなるとも知らず。



そして高校2年の検査。

蛋白と潜血がでていますよという学校の結果をもって、いつもの病院へ。


すると、いつもみてもらってた医者が不在。

短期出張してきたそこしイケメンの若い医者が代わりにいた。


その医者にみてもらうこととなった。



いままで潜血が小学校の高学年からでていて

中学2年から蛋白もすこしずつ混じるようになり、

今に至る。

このような説明をしたときにまっさきにその若い医者が口にしたのは


「大きい病院の、腎臓内科があるところできちんとみてもらいなさい」



いままでこの結果を血液検査で放っておいたのが

ありえない


とのこと。





たまたま短期出張できてくれた医者からもらったアドバイスのもと

大きな病院で腎臓内科にいくことがきまった。


腎臓内科で言われたのが


「できるだけはやく検査入院しなさい」




高校2年の暑い夏の、

近畿の選抜大会が目の前に控えた時のことだった。

つづく

二十歳。

大学三回。

女。

国公立大学。


そんな肩書きがある私。

自分の中での一番大きな特徴は


IgA腎症を患っていること。




見た目も性格も元気いっぱい。


自分でいうのもなんだが、両親にいただいた外見はそれなりに満足もしている。

性格も人一倍あかるいし、元気だし、よく笑っている。

一見ノー天気な女子大学生にみられてもおかしくないだろう。


だが、

そんな私は難病の持ち主である。


その事実に苦しみもがき、誰も責めることのできない虚無感を味わったのは

高校2年の冬。



毎年ある学校の尿検査で私は小学校の高学年からひっかかっていた。

潜血(尿に微量の血が混じること)が出始めて

病院にも行ったが、毎年血液検査までして終わりだった。

中2になってタンパクも混ざり始めた。

詳しい数値は覚えてない。


担当の医師はいままでどおり血液検査までみて終わり。

「女の子は生理などあって、運動とかもすればタンパク出てしまう人もいるからね」と楽観視されてきた。


永遠にこの医師に診てもらっていたら私は今頃しんでいたかもしれない。



だが、

今生きている。


20歳になった。



私のひとつの分岐点が高校2年でやってくる。

つづく。