長屋門稽古で有形文化財(建造物)の「根岸家長屋門」は江戸後期の寛政年間に建てられて正面門を入り左側が嘗て友山さんが剣術を教授した幅13間、奥行き3間に含まれる「振武所」といわれる剣術道場です(流派は北辰一刀流・他、甲源一刀流)の免許皆伝を持ていたそうです。
根岸家ご当主から「北辰一刀流の目録」を見せていただく 豊島区巣鴨の「本妙寺」
にある「千葉周作の墓」
1820年(文政3年)~廻国剣術修行の旅に出て各地で他流試合を行った北辰一刀流の流祖、千葉周作は修行廻国3年目の1822年(文政5年)に上州一の剣豪いわゆる馬庭念流の小泉弥兵衛を破り・・・北辰一刀流の入門者たちが伊香保神社に奉納しようとするが新興勢力の北辰一刀流の進出を阻む馬庭念流の一門や、やくざ・漁師たち迄、集まり500余名が気勢をあげる北辰一刀流と馬庭念流の抗争事件「伊香保神社掲額事件」があったのです・・・
その時代に根岸友山(当時15~16歳)と千葉周作(25~26歳)が
出逢って根岸友山は北辰一刀流を学ぶため江戸へ修行に出たそうです
(ご当主のお話、その時は千葉周作が10歳くらい年齢は上だと言っておりました)
千葉周作の北辰一刀流と上州の馬庭念流との抗争事件は以前より知っておりましたが
この地に周作が来ていて根岸友山さんとの繋がりがあったと思いがけないお話を聞かせていただきました。
門前で撮影 嘗ての振武所(剣術道場)といわれた場所 ▲ 門人帳
前書き歴史が長くなりましたが、では今日の稽古
無外流はむやみに戦わない剣術なのでしょう・・・やむを得ず、対敵と戦わざるを得ない
状況で「対敵を制す」場面が基本動作にあります。基本三の「小手を制す」です
組太刀にも「霞(かすみ)」業など小手以外にも多々ありますが・・・問題はその場面が
仮想敵が見えず一人稽古しているので、腰が高くなったり、剣尖の位置が高かったりします
そのことを指摘し対敵を立たせ交互に稽古することにしました。(居合形全てに言えます)
対敵を立たせて・・・ 小手を制する間合いと位置 一足一刀の間合いの稽古
組太刀・剣術は相手が常に同じというわけにいきません
対敵はいろんな人がいるわけで己より背の高い、低い、細身や体重の大きい人もいるわけで
複数いた場合は時計回りに相手を変え交互に組み稽古をします。
腰をいれ斬るように注意したので・・・・ 脇差で斬る稽古
「綺麗な両断」が出来るようになる (右片手で斬ります)
今度は対敵相手の「間(ま)」です。対敵はコロナ感染防止策と同じ、人との距離ですね
対敵との剣尖を平正眼で構え「一足一刀」で、足を一歩踏み出し
間に入り対敵の剣尖が己の身体に触れる危険距離が1.8mから2mなんです
この約に2mで鯉口を切るか斬らないかで「生死を分ける」間(ま)なのです・・・
江戸幕末では良く対敵と構えてこの間の攻防で、「や~や~」「ヤーヤー」と双方に
かけ声だけは勇ましく・・・一歩踏み出せず「睨み合いが続いたとか・・・」
そんなことも実際にあったようです。生死を捨て向い戦うほうが強いですよ~
「今日は少し脱線しました~」御免~
間もなく梅雨を迎えます・・・体調には十二分に注意をしましょうね~