今週は何年ぶりか疲労困憊、体調が思わしくなくブログ更新が出来ませんでした

申し訳ありませんしょぼん・・・以前の江戸道場を巡る続き・・

江戸道場を巡るあし「その二」を投稿掲載いたします・・・宜しくお願いいたします


JR電車御茶ノ水を下車して明治通りを南下し明治大学の裏側に錦華公園隣りが「撃剣館」

の跡地であると言うので明大通りを歩くあし・・・


江戸道場を巡る      江戸道場を巡る

     御茶ノ水周辺地図                         日大病院


テーマから脱線するが、日大病院病院裏の一帯は江戸末期の幕末に

勘定奉行・江戸町奉行・外国奉行等多くの役職を拝命し最後は領地に戻り非業の最期ドンッを遂げた

幕臣「小栗忠順(おぐりただまさ)の屋敷跡である・・・

また、明治通りの沿いの杏雲堂病院の垣根には「思わず!」テレビや映画で一心太助と協力を得て

活躍する天下の御意見番叫び「旗本直参の大久保彦左衛門」の屋敷跡碑が見えて驚いた・・・

こんな処にひらめき電球である

明治大学裏の錦華公園の隣りは区立お茶ノ水小学校・・・

ここが嘗ての神道無念流派一の剣術家・岡田吉利(通称十松(1765~1820)

撃剣館・岡田十松道場」です・・・この道場から後に練兵館を開いた斎藤弥九郎も輩出し

新選組の永倉新八や新見錦もこの道場にいたとも言われています



江戸道場を巡る     江戸の道場を巡る

杏雲堂敷地内の垣根の大久保彦左衛門の屋敷跡碑が見えた・・・▲大久保彦左衛門IMG


江戸道場を巡る     江戸道場を巡る
区立お茶ノ水小学校は「撃剣館 岡田十松道場」 隣りに旧(錦華小学校)明治十一年に学ぶ

                               吾輩は猫ネコである・・・夏目漱石の石碑がある



次は心形刀流(しんぎょうとうりゅう)

心形刀流と言えば第八代目の伊庭秀業(ひでなり)が開いた伊庭道場の錬武館(れんぶかん)」
が竹刀と防具を用いて幕末の四大道場に数えられるほど隆盛であったという・・・

門人に数多くの藩主が名を連ねている浅尾藩主・村松藩主・鳥羽藩主・唐津の小笠原家

米沢藩主の上杉斉憲・沼津藩主の水野忠邦等・・・

その秀業の長男が皆様がご存知の「伊庭の小天狗」と異名をもち容姿端麗・・・

隻腕(せきわん)で敵を斬り伏せ函館で砲弾を受け息絶えた剣豪、伊庭八郎秀頴(ひでさと)です

八郎の道場は台東区の上野五丁目稲荷町の下谷神社傍と聞いていましたが?・・・

今回は、中野区の貞源寺に伊庭家の墓所を訪ねました


                        ▼伊庭八八郎
江戸道場を巡る  江戸の道場を巡る  江戸道場を巡る      
中央画像に左が伊庭八郎の墓、右が弟の想太郎の墓  伊庭家の解説石碑(詳しく記されています)

(伊庭八郎画像はネットでお借りいたしました)



次はペリー来航後の政情から旗本以下の御家人に剣術・槍術・砲術などを学ばせる必要を感じて

幕府が設けた軍事訓練施設「講武所跡」です

日本大学法学部の図書館の前に立っていますが解説板から立っている前の道から

神田川一帯(三崎町)が当時の講武所があった場所と示されています

教授として剣術の男谷(おだに)精一郎・伊庭軍兵衛・榊原健吉・桃井春蔵

槍術では高橋泥舟(でいしゅう)・・・砲術では高島秋帆(しゅうはん)・勝海舟などの名前が

見られます・・・文久(ぶんきゅう)三年(1863)将軍家茂上洛の警護として講武所頭取の

男谷精一郎・上記、剣術教授他・・・伊庭八郎も一員として加わっています



江戸の道場を巡る     江戸の道場を巡る
     水道橋駅周辺地図          日大法学部図書館の前に立つ「講武所跡」解説板


次は新撰組ファンなら誰しも名を聞いている天保一〇年(1839年)

近藤勇の養父である天然理心流三代目・近藤周助が創設した天然理心流の「試衛館道場」です

都営大江戸線で「市谷柳橋」駅下車徒歩あし五分、市谷甲良町に記念碑が建立してあります

若き塾頭の沖田総司をはじめ土方歳三・井上源三郎・山南敬助・永倉新八・斎藤一など

後の新選組の中核をなす剣士達が稽古に出入りしたとされています・・・

(以前にブログ掲載してありますので詳しくは割愛します)

いつも気になるのは奥に小さな祠があり・・

思いを馳せ・・・幕末当時の若き日の剣士達(後の新選組)に行く末を見続けていたのでしょうか?

チト気になりますね!



江戸の道場を巡る       江戸の道場を巡る
中央右下に試衛館跡の記念碑が見える・ 試衛館記念碑の奥に小さな祠がある(中央・右上画像)


では幕末から江戸中期に戻ります(タイムスリップ)

最期は無外流(むがいりゅう)です・・・

流祖・辻月丹資茂(つじげったんすけもち 幼名は兵内)は慶安元年(1648年)近江の国

甲賀郡宮村字馬杉生れ、十三歳の時京都で山口流の山口卜真斎について山口流剣術を学び

二十六歳の時、兵内は師匠より山口流の免許を認可、同時に江戸出府を許され、麹町九丁目に

道場を構え、山口流の兵法の看板を掲げたが・・しかし、名もない田舎兵法者として相手にされず

僅かばかりの弟子と稽古し修業した・・・平内は学問本と心ドキドキの修養の必要を感じ麻布吸江寺の

石潭禅師に師事・禅学と中国の古典を学び・・・その後石潭禅師が遷化されたため、続けて

第二世・神州和尚について参禅、平内五十四歳の時悟りひらめき電球を開き、

信州和尚は師石潭禅師の名で次の偈(げ)を与えた


一法実無外 (一法実に外無し) 

乾坤得一貞 (乾坤一貞を得)

吹毛方納密 (吹毛まさに密に納む)

動着則光清 (動着すれば光清し)



江戸の道場を巡る      江戸の道場を巡る
JR四谷駅下車徒五分 昔の地図を現在に当てはめると月丹の道場は「仲良し公園」あたりである



江戸の道場を巡る      江戸の道場を巡る
四ツ谷駅~仲良し公園に行く手前にある「心法寺」  境内にある銅製の梵鐘・・・1676年に鋳造
              月丹はこのお寺の鐘の音を聞きながら音譜稽古に励んでいたのでしょう・・・


兵内を改め月丹資茂(げったんすけもち)となし、流名を偈よりとり無外流としたのは

元禄六年(1693年)の事である二十年の参禅により、一介の剣客でなく、剣者と共に禅者でもあり

学者でもあった月丹は吸江寺を訪れる大名とも対等に語ることが出来、中には小笠原佐渡守長重

・厩橋の藩主・酒井勘解由忠挙・土佐藩主・山内豊昌等がいた

元禄九年より宝永六年(1710年)まで十四年間の誓詞によると、月丹の弟子は万石以上の大名

三十二家、直参百五十人、陪臣九百三十人とある

月丹、六十一歳の時、酒井忠挙の取り計らいで、御目見得の儀として五代将軍綱吉の謁見の

許可が出たが不運にも綱吉の死去により実現しなかった・・・しかし、一介の浪人剣客に

お御目見得の許しが出たことは当時破格の出来事であった