台風が東北地方を去り・・・かなたに消えた今日
京都は朝から天気快晴・・・昨日のお酒の酔い残りもなく心も気持ちも快晴。
「さあ~市中廻り・・・参るぞ!」・・・と早朝の午前8時、ホテルを出る
先ず、長州藩邸に伺い?ご挨拶?桂小五郎に会う・・・早朝なので静かな京都ホテルオークラ前です。
嘗てこの界隈は長州の屋敷がありホテルオークラのの片隅に
長州藩士、桂小五郎(木戸孝充)の像があります。「おはようございま~す・・・」
踵を返し京都御所の「蛤御門(はまぐりごもん)」に向かいます・・・
右上:ホテルオークラにある桂小五郎の像 右上:建礼門 中央:猿が辻
中央:蛤御門
文久三年(1863)8月18日禁門の政変に出動した壬生浪士組は昼は仙泂御所、夜は南門を警備、
「禁門の変」における最大の激戦区で、今も弾痕が残り会津・長州兵が激突した
死闘を物語っています。この日、彼らは「新撰(選)組」と命名される。
新撰組の活躍がここから始まります(デビューです)
修羅場となった御所(築地塀)を眺めながら歩きます・・・
日差しが強くなり水分補給で休憩です・・・
12名の外国の観光団とすれ違って暫く歩きます・・・テクテクてくてく
あとどのくらいでしょうか?御所を警備しているパトカーをちょっと止めて。
あの~・・・「「猿ヶ辻の場所は・・・」と聞いて「遠くに見えますでしょ・・あの角地です・・・」
快く教えてくれました。
この角地、東北隅で鬼門の「猿が辻」は木彫りの猿が飾り付けてあるという・・・
文久三年(1863)5月20日に公武合体派の公卿、姉小路公知(あねこうじきんとも)が
暗殺されました。(猿が辻事件)
(暗殺者は刀を残して逃げた人斬りの異名をもつ薩摩藩士の田中新兵衛といわれ
自害したと言われています・・・)
もう目の前は同志社大学です。
此処の同志社構内の一帯は
幕末に薩摩(鹿児島)藩邸があったところです。
学生さんと一緒に歩いて一時、
若い気分で通り(藩邸)を眺めていました。
(ウキウキ・・・)
薩摩藩邸跡の同志社大学
中京区錦東洞院が手狭なため文久二年(1862)に
ここに大きな藩邸を設けた。
敷地の広さ五千八百五坪(約一万九千平方メートル)
九棟の建物と多くの土蔵が並んでいた
ようです。(広いですね~)
![もっと気軽に居合道! 熊谷道場 剣酔記-幕末京都市中廻り其の四](https://stat.ameba.jp/user_images/20121103/15/samurai-ukikusa/d8/fa/j/t02200165_0800060012268238741.jpg?caw=800)
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中央:二之丸御殿 右上:二之丸庭園 中央:天守閣から見る遠望
若い気分もつかの間です・・・次は「元離宮二条城」です。
時間節約のショーカット(タクシー)で二条城まで・・・流石に世界遺産の観光名所です
平日なのに観光バスが駐車場
に数十台、整然と並んでいました。
新撰組が京に上って四年目、1867年(慶応3年)国中を揺るがす一つの出来事が起きたのです。
二百六十年あまりの徳川幕府の終焉である「大政奉還(たいせいほうかん)」の発表です。
二之丸御殿では美麗を極める絵画や彫刻などの桃山文化の全貌を見ることができます。
徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還を言い渡した大広間では、将軍に近い柵に
ヨーロッパ系の外国人二名が身を乗り出し眺めていました。
(ちょっと注意)「無礼な!下がれ!?」・・・
屋外の将軍のニ之丸庭園も見事です!
修学旅行生の一団と遭遇・・・先生が頻りに庭園の説明をしているところをスルーして
本丸~天守閣を廻り足早に二条城を少し端折りましたが充分堪能できました。
将軍が大政奉還を発表する大広間 左上:京都守護職屋敷跡を見る
右上:京都国際ホテルにある福井藩邸跡碑
昼餉(昼食)も忘れ?(我慢?
)・・城外に出て二条城前の京都国際ホテル
内にある
松平春嶽・橋本左内が活躍した「福井藩邸址」を廻り京都守護職跡碑と
京都守護職屋敷跡碑(京都府庁)を探すのに時間がかかりそうです・・・
時間は午後二時をまわりました。
残念ですがパス・・・遠望からの眺めだけで我慢しました。
次回は新撰組のゆかり地「壬生」「島原」へ車
を走らせます・・・筆も走らせますよ~
参考文献 京都市・新選組・元離宮二条城