会津武家屋敷
会津の歴史と武士(もののふ)の哀歓 今ここに・・・
会津藩の武家屋敷は、戊辰戦争によって殆どが武具、家財と共に焼失しました。
この屋敷には、二年余りの歳月をかけて追手門前にあった
家老・西郷頼母(さいごうたのも)邸を復元したものを中心とし、
武家文化にかかわる建物が立ち並びます。
背景に、松平家の御廟(ごびよう・墓地)をひかえ、指呼の間に、鶴ヶ城を
眺望できる景勝の地にあります。
追手門前にある西郷邸跡 左上:武家屋敷正面
右上:中央 家老屋敷入口と玄関
家老屋敷 西郷頼母邸(さいごうたのもてい)
西郷家は会津藩松平家譜代の家臣で代々家老職を務めた千七百石取りの
家柄す。江戸時代中期の和様建築の粋を集めた豪華かつ壮大な
この家老屋敷は敷地面積、二千四百坪・建物面積、二百八十坪を誇り
三十八室もの部屋を擁しています。
四脚門(しきゃくもん)や式台玄関それと冠振りぐしに九曜の紋章を付けた
鬼瓦(おにがわら)などは格式の高い西郷家ゆえに許された特権です。
式台玄関(家老屋敷の正面に位置する 左上:片長屋 右上:駕籠部屋
表玄関。 中央:家臣の居宅(独身)
片長屋 江戸時代の武家邸宅の回りには長屋を設けて下級の家臣を
住まわせ屋敷の警備にあたらせた。
この長屋は長門の片側に付いているところから片長屋という。
左:松平容保像 右上:役人所(事務処理をする部屋)
右上:会津藩祖・保科正之と家訓 右下:番所(家臣が警護で詰めている部屋)
右上:次の間(主人がお客様を迎えた部屋) 文久三年(1863)十月九日
家老部屋を訪れた藩主・松平容保公に 孝明天皇より下された宸翰と和歌
屋敷の主人・西郷頼母近悳(ちかのり)が
挨拶している場面です。
大河ドラマ「新選組」のロケはこの部屋で
行なわれました。(左上:御成りの間)
右上:裃 左下:打掛と鏡 右上:御成りの間専用の
厠(外部) 左下:厠(内部)
「自刃(じじん)の間」・奥二の間 左下:悲劇の家老 西郷頼母の胸像
と後の絵は妻・千恵子
西郷頼母一族の自刃(じじん)
慶応四年八月二十三日、西軍の侵攻は疾風の如くであった。
西郷頼母が登城した留守宅では妻の千恵子を筆頭に一族郎党二十一人が
全員自決を遂げた。
この様子は、弾雨を避け邸内に入った西軍藩士・中島信行が死に切れず
息も絶えだえの少女からの介錯を求められ涙ながらこれに応じた悲劇を
▼再現したものである。
右上:西郷頼母家族が自刃する前に 右上:家老の寝室として使われ
涙ながら詠んだ辞世のかずかず・・ 書院造りとなっている。
この場面は父の寝室で遊んでいる
逆さ屏風(さかさびょうぶ) 子供逹を母の千恵子が叱っている
ところである。 右下:化粧の間
武士やその家族の覚悟の自刃の
場合は屏風を逆さにするという作法となる。
戊辰の役は数多くの悲劇を生んだ戦役が悪化し西軍が城下に殺致して
籠城を知らせる早鐘が鳴ると家老の西郷頼母は急遽城に入った。
妻、千恵子は夫を送り出した後、家を清めはや、これまでと
三女(田鶴子・九才)四女(常盤子・四才)五女(秀子・二才)を刺し
一族二十一人それぞれ辞世の歌を詠み自刃した。
なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ
一族二十一人の墓は鶴ヶ城東南、門田町北青木「善龍寺」にあって
毎年五月その霊を弔う「なよ竹祭」がしめやかに行なわれる。
左:台所 右:会席本膳一式 左:女中部屋 右:女中頭部屋
姿三四郎のモデル「西郷四郎」 山川捨松(やまかわ すてまつ)
(1866~1922年) (1860~1919年)
左上:得意技「山嵐(やまあらし)」の像 右上:鹿鳴館(ろくめいかん)の華
右上:西郷四郎の使用した柔道着 大山捨松(おおやま すてまつ)
山川捨松(やまかわすてまつ)万延元年~大正8年
会津藩家老・山川尚江(ひさえ)の末娘で兄に山川浩・建次郎がいる。
幼名は咲子。明治四年(1871)日本初の女子留学生として
津田梅子(津田塾大学創設)ら五名の少女と共に渡米。
名門女子大バッサーカレッジに学んだ11年間の留学生活を終え帰国した後
陸軍卿・大山巌と結婚。留学経験を活かし鹿鳴館などで活躍し
日米親善の先駆者となった。
「のっこみ」「のりこみ」とも呼ばれ 旧中畑陣屋 主屋一棟
代官と身分の高い客の出入り口 陣屋とは藩政時代の役所であり
(旧中畑陣屋) 代官所とも呼ばれていた。
見ごたえのあった会津武家屋敷を午後二時ごろでしょうか?
近藤勇の墓・萱野権兵衛・郡長正の墓を訪ね天寧寺(てんねいじ)に
向う途中の奴老ヶ前(やろうがまえ)です・・・
「田楽 お秀茶屋」の店が見えました。
「ここにはほのぼのと会津のあたたかさがある・・・」というキャッチフレーズの
「お秀茶屋」の暖簾をくぐり・・・店に入りました。
店内は少し席が空いていて・・・皆さん餅や田楽を食べていました。
そういえばお昼の食事をしていません・・・早速、田楽のセットで昼食です。
驚くほど柔らかい白い餅と生揚げに秘伝の甘味噌を塗りこんで
炭火でこんがりと焼いていく・・・
香ばしい甘味噌の焦げた香りを吸い込みながら
食べました・・・うま~い・・・流石に会津名物の老舗だけあります。
ご主人にうまいね~と聞いたところ・・・「炭火で焼いているからね~!」と一言
納得です・・・
会津名物、弥老ヶ前の田楽屋は三百年ほど前、峠の腰かけ茶屋として
暖簾を出した。当時、店のあたりは川原になっており、
会津藩士専用の処刑場として使われていた。
今生最後の食として罪人逹に田楽と清水を与えたという会津藩士の慈悲は
今でも語り草となっているそうです。
美味しい会津名物の田楽も腹いっぱいになり・・・では「そろそろ・・参ろうか・・・」
ご主人「お勘定!」・・・
会津名物「田楽」のお秀茶屋 食後・・・左側の道を左に回って
近藤勇・萱野権兵衛・郡長正の墓
天寧寺に向いま~す。