6月の中旬、平日のある日の午後。奉公(仕事)の合間、一時である。
旧白山通り、白山上の交差点を都営三田線の白山駅に向う手前右側に折れ
将軍ゆかりの「白山神社(白山権現)」を訪ねた。
平日の午後で神社境内は物音しない静寂さであったが、突然「パン・パン」と
手拍子が二度鳴った。
振り向くと本堂前で二礼二拍一礼をして、お願い事をしている若い女性がいた。
白山神社は平安初期に加賀国一宮神社が移されてのが始まり、元は白山三丁目にあったが、五代将軍徳川綱吉の白山御殿、屋敷造営のため、現在の地に移された。(1655年)
以後、白山御殿の屋敷神とされ「綱吉」と生母「佳昌院」の熱い庇護を受けた。
歯痛に効く神様と知られ寺社内の「あじさい」が有名と聞いているが
残念ながら「あじさい祭り」の時期も終わり、お寺の裏側のあじさいが
わずかに咲いていて、拙者を癒してくれた。
しばらくして・・・踵を返し次は
「八百屋お七」の霊を弔うお寺「圓乗寺(恋の願掛け寺)」を訪ねる
来た道を戻り、旧白山通りに出て交通整理をしている同輩?叔父さんに
「八百屋お七の墓のある圓乗寺は何処にありますか?」・・と聞いたら
親切に「ここを下って・・ほら・・あそこに寿司屋さんが見えるでしょう・・そこを左折して50メートルも行けば左側にあるよ・・・」すぐ教えてくれた・・運転帽子をかぶった叔父さん「ありがとう!」
お七については井原西鶴の「好色五人女」など古来いろいろ書かれ異説が多い
お七の生家は、駒込片町(本郷追分)などで、かなりの八百屋であった。
天和の大火(天和2年、1682年12月近くの寺院から出火)でお七の家が焼けて
菩提寺の圓乗寺に非難した。その避難中、寺の小姓佐兵衛(又は吉三郎)と恋仲になった。
やがて家は再建され自家に戻ったが、お七は佐兵衛に逢いたい一心で、
付け火をした。放火の大罪で捕えられたお七は
(天和3年3月29日)火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。
三基のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。
右側は寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評を得たので建立した。左側は近所の有志の人たちが270回忌の供養で建立したものである。
<文京区教育委員会>彼女の墓はお七の評判とともに「恋の願掛け」に訪れる娘達が後を絶たなかったという、彼女達が「お守り用」に墓石を削り取ったため小さくなった墓はいつまでも訪れる人の手向ける花が絶えない・・・
墓の周囲は今日も綺麗に整っていた。
江戸一番の悲恋の恋の願掛け寺でした・・・(合掌)
主な参考文献 PHP文庫「東京・江戸散歩おすすめ25コース」
著者(江戸歴史散歩愛好会)・文京区HP
上記の文献を参考にさせていただきました。