松田聖子

「赤いスイートピー」

1982年は大きな災難で始まった。

2月8日、ホテルニュージャパンの火災が起こり、33人が死亡。

なんと翌9日には日本航空350便墜落事故が起こる。

あの片桐機長の事件である。24人が死亡。

激動の幕開けの1982年。わずかか2日間で57名の尊い命が奪われた...


事故の直前、1982年の1月21日。

松田聖子は8枚目のシングル

「赤いスイートピー」をリリースした。




スイートピーの花言葉は

「門出」「別離」「ほのかな喜び」「優しい思い出」。

赤い(火災)スイートピー(別離)?



安心してして下さい!考え過ぎですよ(笑)




でも時に流行歌には不思議な暗号が含まれていることがある。


「赤いスイートピー」 作詞:松本隆 作曲:呉田軽穂

春色の汽車に乗って

に連れて行ってよ

タバコの匂いのシャツにそっと寄り添うから


ニュージャパンの火災は9階938号室に宿泊していた

イギリス人の男性宿泊客の寝タバコが原因であった。

また日航機(汽車は乗り物繋がり?)は羽田沖のに墜落した。


ちなみに作曲の呉田軽穂とは松任谷由実のことである。



右は作詞の松本隆。


この曲の成立の裏にもドラマがあったようだ。

ユーミンは当初、松田聖子に楽曲提供するのを頑なに拒んでいた。

理由は2人が広いくくりでライバルということもあるだろが、

それよりもユーミンが松田聖子を認めていなかったことが原因だと言われている。

アイドルの小娘を売り出すのにどうして自分が加担する必要があるのか?

プロ意識の高いユーミンは彼女を見下していた。


そこの仲を取り持ったのは作詞家の松本隆である。

あの伝説のバンド、はっぴいえんどのメンバーである。

松本に説得されてユーミンが書いたこの曲は結果的に大ヒットした。

最後の抵抗として、ユーミンは本名を使わず「呉田軽穂」という

ペンネームを使うことを条件にしている。

こうしてこの黄金トリオ(ユーミン、松本、聖子)は

「渚のバルコニー」「小麦色のマーメイド」「瞳はダイヤモンド」

「秘密の花園」「Rock'n Rouge」と全盛期のヒット曲の大半を

作り上げていく。調べればあれもこれも...どんどん出てくる。


そうかぁ、松田聖子のヒット曲ってユーミンの曲なんだぁ...


「赤いスイートピー」ぐらいかと思っていたけど、こんなにも...

それ以外にも「天国のキッス」「ガラスの林檎」の作曲は細野晴臣である。

そう、これも言わずとしてたはっぴいえんどの大御所。

要はユーミンを売り出したメンバーがそのまま松田聖子を作っている。

ユーミンが荒井姓の頃からレコーディングメンバーとして支えているのが

細野晴臣回りの面々である。はっぴいえんど、ティン・パン・アレーと

続く強者がユーミンを支えた。その中の一人が松任谷正隆である。

(ユーミンについてはこのブログの

「荒井由実 晩夏 ~ 松任谷由実と荒井由実」もチェックしてね♪)


しかし、こんな強烈な面々を自分の周りに集めた松田聖子の運も凄い。


そうそう、本当はこの曲が大好きで、1982年のくだりは

そんな内容を書く気もなく、リリース年の1982年を何気なく調べていたら

たまたま思いついただけでーーす。


安心して下さい!

考え過ぎですから...(笑)



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