先週の診察で、主治医といっぱいお話をし、最終的に「りかちんさん、『あきらめる』しかないよ。」とおっしゃいました。
私の気持ちを汲んでそうおっしゃったのか?
「それは『我慢する』ということが続くのですね」と私がいうと、「『我慢』は相手の気持ちや行動を変えることを自分が期待して、思い通りに行かないことに対することだから、『我慢』ではなくて、『あきらめる』んだよ。相手のことを変えることはできないってことだよ。」というお返事。
私、どうしても納得いかないまま、とりあえず診察をが終わりました。
まぁ、次回の診察までの宿題として与えられた『あきらめる』ということなんですが…
『あきらめる』って、「自分の思いや願いを断念すること」だと思うんですね。今朝、パパさんに聞いても同じ答えでした。
しか〜し!
昨日購入した書籍に「ありのままの状態を受け入れること」と書かれてありました。(精神科のドクターが書かれた本です)
その意味はわかるのです。「仕方がないよね」とか「そういう運命なんだよ」ってことで片付けてしまうことなんでしょう。
私はそこに「でもね…」と言いたくなってしまうんですよ。
「でも…」って思っている以上は、今の私の鬱に状態が良くなっていないってことなんでしょうけど、どうしても解せない。
「○○だから仕方がないよ」とあきらめることが積み重なることによって、自分の気持ちや、大きくいえば生活や人生までもを犠牲にしたり、つまらないものにしてしまったりと、ストレスが溜まっていくんです。
相手は「発達特性だから仕方がない」とノンストレスで振る舞い、それによって自分は迷惑を被る…
そのストレスの吐口は、どうしたらいいのか?
そんな気持ちを持って「ありのままの状態を受け入れる」なんてできそうにありません。
そんな鋼のメンタルだと、うつ病になんてなりませんよね。
私には『おおらかさ』というものが欠如しているのかしら?
「それくらい大目に見たら?」「そんなこと気にしない気にしない」って一休さんの名台詞のように、動じなければいいのでしょうか?
私が思っていた『あきらめる』と、精神科の先生方の思ってらっしゃる『あきらめる』の違いに、戸惑いを感じて、昨日からさらに心がモヤモヤ。
ただ、普通に静かに生活したいだけなのに、どうして周囲に振り回され、疲弊していることを『あきらめる』という心境で過ごさなければならないんでしょう?
来週の診察で、今の気持ち、ぶちまけて来ます!
私の気持ちを汲んでそうおっしゃったのか?
「それは『我慢する』ということが続くのですね」と私がいうと、「『我慢』は相手の気持ちや行動を変えることを自分が期待して、思い通りに行かないことに対することだから、『我慢』ではなくて、『あきらめる』んだよ。相手のことを変えることはできないってことだよ。」というお返事。
私、どうしても納得いかないまま、とりあえず診察をが終わりました。
まぁ、次回の診察までの宿題として与えられた『あきらめる』ということなんですが…
『あきらめる』って、「自分の思いや願いを断念すること」だと思うんですね。今朝、パパさんに聞いても同じ答えでした。
しか〜し!
昨日購入した書籍に「ありのままの状態を受け入れること」と書かれてありました。(精神科のドクターが書かれた本です)
その意味はわかるのです。「仕方がないよね」とか「そういう運命なんだよ」ってことで片付けてしまうことなんでしょう。
私はそこに「でもね…」と言いたくなってしまうんですよ。
「でも…」って思っている以上は、今の私の鬱に状態が良くなっていないってことなんでしょうけど、どうしても解せない。
「○○だから仕方がないよ」とあきらめることが積み重なることによって、自分の気持ちや、大きくいえば生活や人生までもを犠牲にしたり、つまらないものにしてしまったりと、ストレスが溜まっていくんです。
相手は「発達特性だから仕方がない」とノンストレスで振る舞い、それによって自分は迷惑を被る…
そのストレスの吐口は、どうしたらいいのか?
そんな気持ちを持って「ありのままの状態を受け入れる」なんてできそうにありません。
そんな鋼のメンタルだと、うつ病になんてなりませんよね。
私には『おおらかさ』というものが欠如しているのかしら?
「それくらい大目に見たら?」「そんなこと気にしない気にしない」って一休さんの名台詞のように、動じなければいいのでしょうか?
私が思っていた『あきらめる』と、精神科の先生方の思ってらっしゃる『あきらめる』の違いに、戸惑いを感じて、昨日からさらに心がモヤモヤ。
ただ、普通に静かに生活したいだけなのに、どうして周囲に振り回され、疲弊していることを『あきらめる』という心境で過ごさなければならないんでしょう?
来週の診察で、今の気持ち、ぶちまけて来ます!