揺れが来て地震だとすぐにわかった。
ゆったりとした長周期の揺れ方、これは過去の経験で遠方で比較的大きな地震が起きた時のパターンだ。
そろそろ収まるだろ。
そろそろ収まってくれ。。
お、おいどういうことだ、これは普通じゃないぞ。。。。
その揺れはいつもと違った。1分を経過しても少しも勢いが止まらず、徐々にそのエネルギーを増していく。これは尋常ではないと戦慄が走る。やがてビル全体が軋むような音を発し揺れはピークに達した。職場内のあちこちで声が上がり我々も慌てて机の下に入る。
ビルの警戒システムが作動し「ただ今の揺れは震度4です。速やかに机の下に避難してください」の放送が入る。しかし震度4なんてものではなかった。どう考えても5以上ははあっただろう。そして時間にして4分以上は揺れただろうか。たまたま外から戻った社員は駅から会社までのまっすぐ伸びる道路がまるでよじれる様に見えたと言った。両側の雑居ビル群はお互いに今にもぶつかり合いくらいに揺れていたとそうだ。
TVをつけると、東北地方で大きな地震が起きたことが分かる。そしてほどなく臨時ニュースで東北の太平洋沿岸に大津波警報6mが発令。
6m! この数字を聞いた時にあの奥尻島の時以上に大変なことになると瞬時に感じた。いままで6mの津波警報など聞いたことが無かった。
そしてその後はもう語るまでもない。。
私は10分程歩いて自分のオフィスのあるビルに戻った。25Fあるそのビルはエレベーターは完全に停止。やむなく非常階段で12Fまで上がる。一部壁が落ちている場所があった。余震のたびに非常階段の空間はギーギーと軋んで泣く様な音が響きわたり今にもビルが崩れるような恐怖感に何度もおびえた。その日は結局、交通機関はマヒ、歩いて横浜まで帰ろうとした者もいたが私を初め多くの社員は泊まることになる。
こんな中でインターネットだけが生命線として大活躍した。家族との連絡もメールでとることができた。丁度職場防災隊長が外出で戻ってこれず私が臨時でフロアの臨時の防災隊長になった。インターネットや携帯メールで帰宅した社員、泊まる社員等の安否確認をスピーディーに行うことができた。
TVには町が空港が田畑が津波に飲み込まれていく恐ろしい光景が次々に映し出される。この2、3日後に原発事故というさらに深刻な事態に発展する。あの時は「いったいこの国はどうなってしまうのか」という不安で仕事も手に付かなかった。自分に何かを覚悟せよと強要してくる様だった。
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あれから1年たった。
先日NHKスペシャルで「38分間~巨大津波 命の記録~」を見た。被災された方々の多くが今だにやり場のない喪失感を抱えられている。我々は「きずな」という言葉を簡単に使ってしまうが、自分の事で精一杯な状況では人との絆を意識できる余裕などない事が番組の中で浮き彫りにされる。1年近く行方不明の娘さんを探し続けるご夫婦の姿に思わず涙した。
まだ34万人の方が避難生活を強いられている。東北3県のがれき2235万トンのがれきのうち最終的に処理されたのは6%にしか満たないそうだ。
今大事な事は組織の立場を越えて知恵を絞って課題を解決することだと思う。組織防衛や保身による思考停止が一番こわい。日経新聞の記事だったか、かつてハリケーンに見舞われたニューオーリンズ市。人口あたりの起業家数は災害前より倍増し全米の平均を越しているそうだ。そしてその主役は他の州から来た人達だ。復興の鍵を握っているのは若者、よそ者、変わり者だと書かれていた。もちろん基本は地元の方の強い産業復興への思いとしっかり連携する事が重要だと思う。
私の様な人間にも何かできる事があるのだろうか。
あらためて震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
1日も早い復興をお祈りしております。
被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
1日も早い復興をお祈りしております。