私は、長崎の原爆中心地のそばで育ってきました。
父と母は、私が生まれて1年目に長崎に引っ越してきたので、昭和35年(1960)に長崎市平和町に住み始めました。
周りには、被曝した方や被曝二世の方がたくさんおられました。
学校の先生も被曝にあって、隣の子は、吹き飛ばされて自分は、そのままの場所で生きていた〜その後の町の悲惨さなどを伝えてくれたり、日々戦争の事は、知り合いのおばちゃん、おじちゃんにも聞いていた。
小学校も8月9日には、あの子らの碑があり慰霊祭をしてました。
遊ぶ場所も、平和公園、原爆中心地、浦上天主堂なんかで遊んでいて、戦後15年以上経ってても、折れたままの鉄塔や首のない銅像が当たり前にあった場所でした
平和公園には、噴水があってそこの石板に掘られてるのが
「喉が渇いてたまりません
水がほしい
川には、あぶらが浮いていました
でも、飲みました」
*正確な文章ではないですが、いつも、この文章を見て、涙が出ました
この戦争も、仕掛けられていたし、原爆も実験の為に多くの人々を犠牲にしている。
今、戦後70数年たって、世界の流れの中で、戦争を仕掛けてお金儲けをしている人たちが、不穏な動きをしてる感じで危機感を感じる
戦争する事、戦うことには、意味がない事
地球自体が、調和のとれた星なはずです
そして
元々持っている日本人の意識の高さ大いなるものと直接繋がっていた事を思い出していきたい