前回、玉置神社でひいた御神籤について

「神の教」と書かれた文章を

誰にも頼まれていませんがサマナ的解釈をいたしました

↓↓

 

 

それでなんと一回で終わるつもりで

気軽に書き出したブログが

何と本文の一文、一行だけで蘊蓄を書いてしまいました

アメブロ的「ほどほど」の文章量をわきまえ調整

整えました次第

 

それで今回はその続きの二回目

楽しみに読んでくださる読者様がいらっしゃると嬉しい限りですラブラブ

 

 

 

 

 

「十人十色、人にはそれぞれ神様から与えられた天分がある。」

 

この文章はまさに読んだままで

さして解説はいらんような気もするのですが

あながち、現代人はこれをまさに

よく履き違える、間違えしやすいことでもあるのかなぁと思います

そこにこそ現代人の生きづらさが生まれることでもあるのか

と丁寧にひろってみたいです

 

 

十人十色

人それぞれの個性

「その人がそのようである」

というパーソナルな領域というのは

人と違うとか

人と比べてどうとか

誰か影響力のある人の評価のなかでの個性でもなく

誰かに認めれてこその個性でもない

 

もしくは人をある分類(範疇)の中に押し込めてみたり

いわゆる一般論とか

常識とか

そのグループにはまっているとか

ある基準や数値でもって決定されるものでもない

人は誰によっても与えらる個性というのはなくて

 

天から与えられている

すでに与えられていることに気づく

まさに内なる自己を内なる神に照らし合わせてこそ

私たちそれぞれの「天分」というのがあるのですよ

と書かれています

 

次に、一番、人がやってしまう傾向にある

その「評価」「ジャッジ」

 

自分自身が立っていないからか?

自分自身を他者評価に任せているというコンプレックスでしょうか?

人というのは

他者をありようにみようとせずに

すぐに簡単に

「見下したり、妬んだり」するものです

その行為は

「大切な心根を腐らせることです」と書かれています

 

ここで、人のことを

「悪くいったり(悪口)妬んだり」と言わずに

「見下したり」と先に書いているところが

なかなかに人間のことを鋭く説いているなと思うのですが

 

人を「見下す」

この心というほうが悪口の前にたつわけです

いわゆる「いじめ」の本質だと思います

 

人ってなぜか序列をつくりたがる

(前職のピラミッド医療の現場でもめっちゃ思いました)

それは人を見下す気持ち

自分があいつよりは上であるんだという気持ち

そこで自分を位置づける

現代風にいう「マウント」

マウント合戦もよくありますよね

 

これって簡単にできることで

かつ、その効力、威力は絶大です

 

例えば、あるグループのなかで

(ターゲットとなる)Bさんが何かを発言する

そのときにはグループ内ではなにも変化

もしくは力関係はおこっていない並行状態のとき

そのグループ内で影響力を持つ人間が

Bさんの言動に対して

鼻でふっと笑うという見下す行為のジェスチャーを小さくでも行えば

そのグループ内が急にそのBさんをターゲットに

見下すような、バカにするような空気感へと変化する

 

そうは思っていなかった人間も

そのグループの大きな波にもっていかれるのです

簡単に

これがいじめの構造です

 

誰でも多かれ少なかれ経験していることかと思うのです

継続的な「いじめ」でなくても

何某かの傷をその人に与えるようなきっかけをつくるのは

この人をバカにする

「見下す」という心根だと思うのです

それならちゃんとした反論をいえ!って思いますよね

だからまだ言い返すというほうが正当なのです

バカにする、人を「見下す」という方が

相手を深く傷つけます

(そういう人はわかってやっているのでしょうが)

 

同調圧力が強くて

自分の考えを表にだすことを憚る人間

誰かがどう反応するのかを待っているような集団(グループ)だと

(日本という土壌はそういうのが多いし、海外にいる日本人もやっている)

こういう「見下す」→吊し上げ→いじめ、もしくは立場が悪くなる

というのは本当によくあるものです

(リアルすぎてごめんね笑)

 

「多様性」とかいう時代ですけど

どこが?

「多様性」をメインに推しているグループこそ

こういうことが悲しいかな、横行しています

 

なぜに?って思いますよね

「多様性」とかを表にだしているグループ(その長)があれば

よくよく気をつけた方がいいですね

 

ただただ人の話を聞きお互いに尊重する気持ちというのは

本当に大事です

なんといっても見下す、妬むというのは心根が腐っているのですから!!

 

私たちは人間関係のもとになりたっていますし

その人の心がどうであるかは

関係性に照らされるものであります

 

どんなに技術、能力をもっていても

その方の心根が腐っていてはどうにもなりません

 

自分の心を整えること内省することと

自分をジャッジすることはまた違います

 

現代的にはあまりにジャッジの社会で生きてきたので

自分の心さえをジャッジ、評価してしまう

そこで萎縮する、ジャッジのうえでネガティブ思考の轍を踏んでしまう

その習性がついていることも

自分自身の心を腐らせることでもあります

 

他者からの見下しもつらいところですが

自分自身を見下す

自己評価が低くなることも

自分自身を弱くさせてしまうことです

 

内なる自己を内なる神に焦点をあわせていく

誰にも神聖さがある

それは同音で、神性さでもあります

人は誰でも神なる性質をもっているのです

それは誰かの啓示でもなく

神をも崇めたてることでもなく

まず、自己の本質に照らす

自分を見る

そういった意味で

あるがままの自分をみる

それしかできない

それこそが本質的なスピリチュアルなところです

外側に向かうのではなくて

誰かに認めてもらうのでもなく

何をかをなさねばならぬ根性でもなく

煽りでもなくて

 

自らの神(神性さ)を悟ること

これは自分自身を奢ることでもなんでもありません

 

そこにこそたんたん、と粛々と

そういった意味で「真面目」にあるべきなんだ

ということを説いているのかと思います

 

 

ようやっと次回は41番の神籤の内容に入れるかと思います!!