↑こちらの写真はちょうど昨日と同じ

6月6日

2019年の日付で

室生のギャラリーに父を連れて行ったときだ

5年も前とこととなりました

 

「その時」が

コロナ前かコロナ中かコロナ以降かって

コロナを起点に振り返るようなことになるとは

まだまだこんな時代が到来すると知るよしもない

穏やかな父の顔だ

 

iPhoneの写真機能が持ち主の意図とは関係なくに

勝手にいろいろ振り返ってくれるiPhone写真が

セレクトの昨日の振り返り写真

トップ画面の右側にあげてくれる

 

ピンクのシャツにお帽子かぶり

小粋な余裕ぶりで座っておりますが

なんにも売りつけられるような

ギャラリーでは全くないのに

慌てて庭に出ていた小心ものの父でした笑

 

父はこの8月、獅子座89歳になります

(夫キリコも獅子座です、父に似ているかというと全くタイプが異なります)

父は祖父母を丸亀で看とってからは

郷里の丸亀生活が長くなっています

 

高校生まで丸亀(丸校出身)にいて

大学で浪人をふくめて東京、横浜

父の自慢は祖父(教員)の縁故で

香川県出身の唯一の首相

大平総理の面談を受けて大阪で就職

同郷の母とお見合い

結婚生活のはじめは阪神の甲子園口

長女が昭和42年に次女(私)が

2年後に生まれるということで

手狭になり大阪は堺へ転居

当時、堺の公団(北花田、現在もある)が

買った時よりも高額で売れた軍資金で

現在、南大阪のベッドタウン

その名もニュータウンの一戸建てに転居

毎晩遅くまで仕事をして

日曜日にしか自宅にいないイメージが

幼少からあった

三人娘はほぼ母が育てた

ばりばりド・ストライクの

高度経済成長期のザ・会社員の典型である

現在のような非正規雇用が半分

一社に真面目に勤め上げれば

働いた分だけのそれなりの成果と

収入がほぼ保証された時代があった

そのおかげで大学まで行かせてもらえたし

父の家に住むことが出来ている


父の世代は昭和のある意味

いい時代の世代なのかもしれない

昭和十年生まれなので戦争も

もちろん経験している


週末に当時の会社員としては

ゴルフもしていたが

狭山に来てからは

新しく開墾した週末農夫さながら

大野の貸し農園で畑仕事ばかりしていた


母の里は実際に農家でもあったが

こんな大阪の住宅地に住みながらも

だから野菜は買うということを

あまりない家でもあった

(そのためか外食時にでてきてもちっぽけなサラダを頼むのに若かりし頃は抵抗があった)

会社員で週末農夫

趣味は写真、読書

車はもってません

妹が原付バイクに乗るまでは自転車一筋


すり鉢状の急坂をくだっては

のぼるところに貸し農園はあった

農園の主は大野ぶどうの農家さんだ

あの急坂を父の自転車の後ろに

乗っていた小学生時代

当たり前だが自分でさえ

父のその時の年齢は軽く超えている

 

誕生日を迎えて

翌々月の59歳の母が他界したときは

父はまだ仕事に出ていた

もうすぐしたら父が退職して二人でのんびりできるそんなときだった

母が倒れてから亡くなるまで(ステージ4の宣告)の半年にもみたない間

父は仕事に行っていた

母がなくなってまもなく

祖母が心不全であっというまに他界

それからは祖父を看ながらの丸亀生活

祖父は99歳まで生きた長寿の人だ

人の悪口、批判とか一言も言わない 

素晴らしい人だった

最後までそして人を導くことを忘れない「教師」であった人だ

苦難のキリコは祖父にだいぶと救われたようだ

祖父の兄弟は戦争で多く死んでいる

 

父には妹が三人いたがみんな先に他界した

男ばかりが残った

祖父が生きている頃から

ときには大好きな海外旅行に行ったり

大阪の自宅にも帰ってきたりもしていたが

なんだかんだと20年は丸亀に居を構えている

狭山の住宅街よりは全然住みやすい

ここあたりで生活するには

みんな口を揃えていうが

車がないととても不便なところだ

そして狭山にいてもお話しできる人って

散髪屋の主人くらいだ

だから生まれ育ち

友達もいる丸亀がいいことになる

(といっても高齢なので施設に入ったり亡くなる人も多い)

城下町だし、近隣に二軒もスタバがあるなんて

狭山よりもあり意味、開けた都会だ

地方都市

しかし車の事故が多い香川県

北海道の次に多いのだ

とても危ない

近所には事故件数が日本一の交差点がある

そんなことは何の自慢にもならない

いつも車には気をつけてくれという


近所にもクリニックはあるのに

ゆうに二キロはあるところまで自転車で通うのだ

その時はタクシーにしてくれと頼むが

電動自転車で通う


交通事故は気をつけても

どうにもならないこともある

これは運に任せるしかない

家の前の道もとても狭い

けれど猛スピードで走る車

祖父にあんなに道の真ん中歩くなと

言っていた本人だが

同じことをして

娘たちにこっぴどく叱られている笑

 

 

生活はすべて自立している

介護をうけるまでもない

それでも何かあってからでは

なかなかだろうからと

今回の丸亀行きで妹と相談して

役所に電話して聞いてみた

役所の方は親切に方言まじりに教えて下さった

介護を受けるまでもない

独居老人用に丸亀市が用意している

サポートがあることがわかった


週二回まで1時間、掃除、ご飯の用意など

ヘルパーさんを呼べることまでわかった

目の前で話しを聞いていた

役所の担当の電話番号を書いて父に渡した

「なんかあったらすぐ来るから大丈夫やで」の

一言で父は笑顔になった


 

冷蔵庫には自家製のヨーグルト

自家製パン焼きでパンも作る

(入れるだけみたいやど)

そのあたりの主婦よりもまめである

ご飯も自分で作れるのだが

祖父のときのヘルパーさんに

個人的ペイでご飯を

週に2、3度作ってもらっているようだ

 

それでもやっぱりなかなか年とともに

いろんなことが億劫にもなるだろうし

帰るたびに掃除、整理

 

妹がなにかと心配性で

父が生きているかどうか確認の

こういうのを見つけ買ってきてくれた

 

 

 

 

インターネットに繋がり

冷蔵庫を開けるたびにそれが

家族に通知されるシステム

「まもりこ」

名前が可愛い

冷蔵庫以外でもいいのだが

生きている限り

冷蔵庫はあけるだろうということで

冷蔵庫にしたのだ

 

 

 

 

こちらは妹のスマホだ↓

私もモニターすることできるみたいだが

まだ登録していない泣き笑い

「がんちゃん」とは幼名だ

父は巌(いわお)という

 

それで結局は接触が悪かったからだと思うが

一昨日くらいか?

妹の家族LINEによると

父が夜(1日に三回の見守りメッセージがくる、下の写真は詳細だが)

冷蔵庫を一度も開けていないことになっていて

連絡したら父は生きていたと笑

 

それを家族LINEで父とともにやりとりがあって

なんかそれはそれで面白い

毎日こうやってLINEを

定期的にしていたらいいじゃないか?とか思う

 

それでもこれは気づいたのだけど

何かあれば連絡

もちろんLINEでも会話できる

けれど

『まもりこ』によっての安心なのだ


父も娘たちに自分の生存が知らされている

娘(妹)も父が生きているわって

いう安心

そうだ、安心はとっても大事

生きている限り必要なことだ

 

それでも父に何かあったとして

すぐに車で家を出たとしても

大阪からだとノンストップで3時間だ

そう

このあたり微妙だ

 

 

それでうちの父は去年

みんなからiPhoneをもらって

甥っ子(孫・大学生)が全て

セットアップしてくれて以来

中高生みたいに活用している

韓国ドラマにこの前は

2時間は夢中になっていたし

囲碁は欠かさない

私には無理だ


で、老人になったな〜と思ったのは

ボリュームがでかいくらいだ

私以上にスマホを見ている

楽しくて仕方ないらしい

元来、新しいものが好きな人だ

好奇心は人を若くする


しかしスマホのやりすぎは首の角度がやばくなる

姿勢が超絶悪くなる

前回帰った時は

首、肩が痛いというから

それは「スマホしすぎや!!」と叱責

前回はヒーリングして帰った

頭部がとくに良かったようだ

今回はしなかったので

また今度してあげようと思う

 

そうだ、私はつねに父にお小言を言う

それでかどうかわからないが

私は里の仏壇のある部屋で寝るのが

昔から嫌なんだけど

(一人ならその部屋には寝ない)

妹が当たり前のように

おねーちゃんここで一緒に寝ようと布団をひく

子供の時から妹と私はセットで

いてもひっついていたものだ

 

仏間に仏壇の扉を閉じて寝たのだけど

今回は夜中、めっちゃひさしぶりに

怖い系の夢をみた

右腕をつかまれて「やめて〜〜」て声で起きた笑

リアルどした

寒気したし寝汗もかくし

妹の寝言かと思ったけど

あれ、帰ってきておもったけど

あっち系の声やったのでは?

実際、怖かったけど

「般若心経」唱えてたら寝てました笑

(宿直経験が生きている!!どんな環境で寝る、神経質な自分には、あれはかなりの修行だった)

 

朝起きてそのことを妹にいったら

 

「今度からはおねーちゃん、二階でねえー」

「そうするわ〜」

 

私がどうも父方のご先祖さまからの

受けが悪いのでは的な感覚について話した

(娘のなかでは一番実働部隊なんだけどね、母亡き後、父の2度の手術も私一人で立ち会った)


そしたら妹が

 

「おねーちゃん、ちょっと言い方きついもんな」って

 

とめっちゃ笑いながら下からいうのだ

 

「そやねん」と少し反省しながらも

 

ぶったぎるタイプやから

いろいろと嫌われる笑

お気持ち(感情)満載に気づかない


 

それで大阪帰ってきてから思ったのだけど

別にご先祖さまが

私をたまさかうらんでいるわけではなくて

なんかその周波数を拾っちゃったのだと思う

あの仏壇がポータルになっている

しかし姉にしろ、妹にしろ全く平気のようだ

 

祖父は祖父の母方の家に十代後半で

養子に入っている(苗字が変わった)

なんかいろいろ不明瞭なことも

あるのだろうと思う

祖父の母はきっと後妻さんだったのか

正規の妻ではなかったのか‥??

中府小町といって

祖父は自分の母の容姿の美しさを

よく口にしていたが

何か突っ込んで聞くとそこはいつもボヤかして

込み入った事情はついぞ話してくれなかった

 

 

 

 

 

 

それにしても

なんだかんだと妹がとてもよくしてくれる

私はいつも妹に誘われるままである

 

今回の帰省で

妹が晩ご飯つくってくれて(我が家的にはありえない)

 

父に「よかったなぁ〜」

「か〜かがご飯つくってくれるなんて」って

ありがたがった

本人は「失礼なっ」て怒っていたけど

妹とは家族のなかではどんなに歳を重ねても

ずっと一番下の子なのである

 

ありがたがるのが次女の私の役目のようである

去年、娘たち三人とその家族みんなが

あつまった88歳のお祝いの席で

父に

「お父さんよかったなぁ〜」

連呼して甥っ子に笑われた


だってほんまにそれしか言えんなって思うのよ

もちろん

母の代わりになって言ってしまうのだろう

自分のことだが、自分のことではない

 

 

 

 

 

話は少しそれるかどうかわからないが

私は父のことをいわゆる「高齢者」だとは

思っていない


父はあくまで父だ

 

介護に関しても自分の考え

老いということに関しても私なりの考えがある


一人の人間としての尊厳

それは父だけでなくて

誰にでもあることだと思う

 

父がよりよく死んでいけること

それを願ってやまない

 

 

 

 

今回はお弟子さんを連れて妹の車に乗り込んだ

 

 

死に方は生き方そのもの

 

 

死ぬときに急に

何かが変化して決まることではない

そんなことをお弟子さんが言っている

だからいわゆる「終活」というのとも

少し違うような気がする


人それぞれがあっていいのだと思う

こうしなければならないことなど

どの歳になってもないのじゃないかと

サマナは個人的にとても思うのだ

 

そして何度もいうがこの肉体を脱すること

死ぬことはこの生をまっとうすることであり

あちら側へ帰還することなのだ

どうやってうまく帰還するのか

そのあたりに神経を使いたい