『バカヴァッド・ギーター』とはヒンドゥー教で重要な聖典である

そして宗教という組織だった枠組

どの道(信仰、国、文化、民族の違い、職業、富めるものも貧しきものも)にあっても

人が霊的に現世を生きぬくのに必要不可欠なエッセンスが

普遍的な智慧として授けてくれる物語(『マハーバーラタ』の中の物語)である

端的に言って本質的な意味で

スピリチュアルに生きたい世界中の人々にとって

またとない高名な聖典になっている

 

ヴェーダーンタを学ぶようになって10年近く

ギーターにようやっとなじむようになった

 

それで先日、ふとしたことから

2章48節の翻訳が気になった

手元にある数冊のギーター翻訳本をだしてきて

その箇所が日本語でどのように

翻訳されているかというのを確認していた

 

その前には

仏教的な「自性」(じしょう)と

そのサンスクリット語の原語である

「スヴァバーヴァ」のヒンドュー的な理解が異なるじゃん!!

てことに頭がウニウニしていた

まあ違って当たり前なんだろうけれど‥

 

言葉という概念理解にもうシプナスがえらいことになって

???だらけになっていた

どことどこをつなげて

もげ〜〜混線していた

 

仏教的といっても

仏教の祖は誰もがご存知のお釈迦さまもインドだし

ブッタは「アートマン」を否定した??

ブッタ以後の大乗仏教のナーガルジュナ(龍樹・インド人)が

「自性」というものを説いた云々

仏教にとって「空」(くう)の思想にとっては

「自性」というものが絶対不可欠な要素になるらしい

仏教哲学むずい

そうだ

もうだめだ

仏教ってほんまなんでそんなに難しくするんだろう

ヨーガではサマーディーで終わりだが

それ以降の段階が大乗仏教にはあるのだ

 

大きく俯瞰して物事を引き目でみる

大風呂敷をひきたがるのは、これは自分の傾向で

あっちとこっちを広げてどう繋がるのか?

どんな共通点があってないのか?

繋がらないのか?

 

何も難しいのが好きなわけではなんでもなくて

大きな風呂敷をひかないと知的テンションがあがらないのが本当のところ

スイッチなのだ

それでしばらく広げまくって

さっそうに畳んだ

広げるのも瞬時だが、諦めもはやい

風呂敷を畳んだ

 

サンスクリット原典で自分が理解できたらベストだが

そんな頭脳も言語感覚もない

あっちを紐解きこっちを紐解き

結局は日本語にひっかかり、言語的な問題であったりして

全くラチがあかない

何を知りたいのかさえわからなくなり混迷を極める

迷路、迷妄だ

 

この人何言っているの?

アホちゃう?ってはい

最近、自分がほんとうに頭イカれているのか?とか

そんな極みまで行く時があります

で、実際に知人に確認したりして笑

まっ自分のことイカれていないか?

アホちゃう?って思う客観性がある限りは

まだ少しセーフということにしておきましょう

 

それで話をもどして

久しぶりにひらけた『ギーター・サール』の

序説に書いていることが素晴らしいことに気づいた

風呂敷が混迷を極めて無くなるのとは違う

どんな風呂敷も広げる必要がない

さっと無くなった

マジックのテーブルクロスひきのように手際よく一瞬だった

この本を頁分、広げるだけでよかった

それくらいのクリアーさがあった

 

全部ひっくるめて

頭がウニウニもうパンパンにヒートアップしていたことが

すっかり落ち着いたというか

問題にしていたことこそが全く問題ではないみたいな

完璧に目覚めさせてくれるような

これだ!!って思わせてくれるような文章だった

 

そしてこの本は

私にとっても記念すべき本でもあります

はじめて手にとった『ギーター』であり

このときは『ギーター』なるものその全貌がどんなものであるのかも

ほぼ何もわかっていないときでした

実際に『ギーター・サール』はギーターの全文が載っているわけではなく

テーマごとに筆者のA・ヴィディヤーランカールが抜粋しているのである

 

私のヨガ体験はほぼ完璧な無知から始まっているのですが(笑)

今から思えば、この本に関しても

本当の意味で全く理解できていなかったとしても

当初のチョイスは全く間違っていなかったなということも思います

今でも続くヨガの学びは学び出した当初に出会ったものばかりです

無知ながらにも感性、直感には狂いはなかったのかと

 

この本は四天王寺にお詣りに行った時に

立ち寄った古本屋で購入した記憶があります

そして調べますと

東方出版という大阪は天王寺区にある出版社が出版している本なのである

今でもその古本屋があるのかどうか?

調べると古本屋ではなく

まさに東方出版という本屋でこの本を手にして購入したようです

いつ購入したのか?

改訂新版の2007年のものです

それで笑えるのが

本のなかに愛読者カードというハガキを

当初は書店に郵送しようと書き込んだものがそのまま残っておりました

 

お買い求めの動機には

書店で見て

に○をしていて

年齢は39歳

女性に○をしています(笑)

 

16年前なのですね

2008年ということは初インドの年ですし

ヨガ学び出して1年くらいのことです

それではじめて

インドに行った年の正月は四天王寺に初詣に行ったのです

この選択は実は私ではなかったのです

その歳の初詣は夫が四天王寺だと促したのです

そこでガンダーラに続く井戸というのを見たのです

「へ〜〜ガンダーラに続くの〜」て

ゴダイゴの「Gandhara Gandhara  they say is was in india」

口ずさんでいたかどうかはわかりませんが

愛の国ですからね

まあ、実際にはガンダーラは現在のインドの地ではないですけど

その年に思いがけずインドに行くことになったわけです!!

それはあのときガンダーラの井戸をみたからだと

ずっと思っているのです

 

それで調べると私は大きく間違していたようで

四天王寺の<龍が井戸>

ここの看板には

天竺(インド)の無熱池に繋がりそこには青龍が守護している

ということ

なんと!!「ガンダーラ」とは書いてない

歌ってもうたわいな

歌ったから天竺が勝手にガンダーラになったのだろう

記憶とはいい加減なもので

歌のインパクトとはでかいものだ

 

龍が守護するインドの池に通じるということだ

四天王寺創建の当時からあるようだ

こちらのブログが写真入りで詳しい

 

 

それで間違はガンダーラかインドかって

多分、歌ってしまったから

ガンダーラへ続く井戸だとたやすく阿呆が間違したのだろう

だけどそれでもインドに行けたのだから

まあ結果オーライ

 

そんな阿呆な思い違いはいいとして

あれから16年たってようやっと

この本の序文に書いていることの意味がわかったのだ

どっちにしも阿呆か‥

まあ、なんて長い道のりでしょうか‥

自分の愚かさ加減に愕然としつつ

腑に落ちる理解ほどに美しい本が生きてくるようです

霊的な理解には近道はないのでしょうと

我がを慰めておきましょう

 

 

 

 

それにしても最近またがね

よくよく龍さまとお会いするのですよ

 

今年は辰年やからスピ系の人が

りゅうりゅううるさいな〜とあなどっていたら

あなどるなかれなんですね

 

はい、龍は大好きですよ

ここで告白しますけど‥

 

「エルマーの冒険」シリーズがはじめての龍体験だったような

調べたらなんと

「エルマーのぼうけん展」というのが

明石文化博物館に展覧会がきているようです!!

 

 

 

 

 

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