お久しぶりです!!

遅かった桜もだいぶと散ってしまった

4月も中旬を過ぎました

ご訪問いただいた読者様はいかがおすごしでしょうか?

 

最近アメブロにアップしていた記事といえば

ヨガクラスのアナウンスと

ヒーリングとタロットリーディングの予約サイト(tol)を

立ち上げたというブログ

(これは結局サマナの宇宙に対する初心表明だったような感じ笑)

 

サマナはどうしていたかというと

このブログでもうちに来ていただいた方からも

絶大な人気がありました

ハチワレ猫のモーさんが

三月十三日、13:30頃に他界しました

 

昨年10月16日に病気(慢性腎臓病、すでにステージ4)が

判明してから半年

結果、半年の猶予、蜜月をいただきました

 

この期間はモーさんにとってのマー(インドの言葉で母)である

私のために用意してくれたような半年でした

モーさんはもともと「ミャー」とはなかない濁声の猫様で

よくお話ししてくれるにゃんこさまでした

今では家がひっそりしています

 

亡くなる2時間前くらいにお尻を綺麗にしていたとき

(腸壁がでてくるのでそれを拭いていました)

一声

小さい子猫ちゃんのような声で「マー」といいました

その声が最後の声でしたし今でも耳に残っています

 

動物病院でもペットを連れていくと

「お母さん」と言われるわけですが

私はモーさんにとって母的存在であったわけですね

それがまたインドの言葉でもある「マー」と

モーさんの「マー」が重なるのです

 

 

年明けで夜勤の仕事を辞めていました

最後の三ヶ月近くは

モーさんに専念しずっと一緒にいれたことは

ほんとうにありがたいことでした

そして前の猫さんと

母の最後の瞬間を家族の誰もがそばにいてあげることができなかったこと

(近い病院なのに病院からの連絡が遅れた)

これをどうしても最後の悔いとしていたので

それだけは果たせたともいえます

 

そしてまたは逆に

一人で逝ってしまうこと

そばにいれなかった、死を看取ることができなかった

というような罪悪感のようなものは

残る人間のただ執着のようなものかと‥思ったりします

もちろんそれも人それぞれでしょうけれど

 

看取りができなかったことに悔恨は残さなくていいのだと

なにより死を悼むこと自体はあったとしても

命あるものがあちらの世界へ還ったこと

そばにいれなかったこと

さみしかったんじゃないか

つらくはなかったか?という

悔恨は、こちらの残されたものの感情的な執着で

それらを手放したほうがいいのだと

彼らがあちらの世界に行きやすくなる、移行しやすくなるなと

今回思った次第

もし私のように長く悔恨の情が残っていた方は

それは情でしかないので

愛だけは永遠に残るので

悔恨の情は手放して

自分をどうか許してあげてほしいです

 

亡くなったあとというのは

残されたものにとってとても厄介なこと

さみしさより苦しめるのは

自分を責める気持ちではないでしょうか?

これはほんとにどうか赦してあげてください

 

これは追善供養を自分でしながら

真言と

般若心経に涙しながら

このためにあるのだと祈りながら思ったことです

 

 

image

 

 

それまでは元気でしかない、勝手に長生きすると思いこんでいた

モーさんが病気とわかって(実際に腎臓以外はすこぶる健康だった)

暗転した半年よりも14年以上の幸せな時間があったのに

(縁あって2009年の7月に滋賀は琵琶湖湖西の堅田から

兄弟のミークンと一緒にきてくれました)

死と病気の影とはすごいもので

失われていく命のかげりのそばにいるということの

インパクトは絶大で

その苦しみをなん度もリターンさせてしまい

失意と悲しみに圧倒された1ヶ月でもありました

 

そしてその暗転は何も確かなものはなく

自分の選択とこれがいいんだという自分の感覚を

完全に信用できなくなるような経験でもありました

 

その期間モーさんのことももちろん影響はあるのでしょうが

魂と肉体が離れるそのはざまを深く経験したからでしょうか?

人生の局面や何かみえる世界がガラッと変わったような感覚もあり

人間関係も変化があり二分されていきました

方向性がはっきりと如実になりましたし

関係性で自分が見えていかなったことに光があたった感じです

 

それでこの期間

モーさんの看取りの瞬間から私の口からは自然と

マントラがでてきました

(さいごは大きく口呼吸になりました)

まだ息があるのかと1時間くらいはずっとそうしていたようです

 

モーさんの魂があちらの世界に滑らかにいけるようにと

亡くなって火葬してもらい

そこではお経を唱えて仏式のお葬式をしてもらいました

いわゆる動物霊園です

ほんまもんのお坊様なのか?よくわかりませんが‥

知人にここがよかったよという勧めもあり決めました

 

場所もそんなに遠からず田舎のちょっと小高いところで見晴らしもよく

火葬場のエネルギーもすごくすきっとしていてクリーンであったので良かったです

勧めてくれた方のおっしゃった通りだったなと

それでお葬式をしてくれた方を

ほんまもんか?と疑うのもなんですが

自分こそ僧侶でもなんでもないですけど

追善供養を初七日から自分でやっております

 

今日は三十五日で地蔵菩薩のステージです

真言はわかるのですが

今までも全部、ご真言を唱えていたのです

 

地蔵菩薩とは?を調べていて

ウィキにのっていたのがサンスクリットで

クシティガルバ であるというのです

地蔵菩薩という響きと漢字より

クシティガルバ

こちらの方が断然腑に落ちます

 

それで今回は地蔵菩薩の真言を

もとのサンスクリットにしました

マントラです

 

地蔵菩薩のウィキ頁をここに引用させてもらいますと

 

 

オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ [7](Oṃ ha ha ha vismaye svāhā)

邦訳すれば『オーン、ha・ha・ha(地蔵菩薩の種子を3回唱える)、希有なる御方よ、スヴァーハー』となる。

 

 

 

 

「種子」となるのがクシティガルバのビージャマントラになるなら

これは正確に「か」ではなくて「ha」の「は」ではないかとおもいまして

まあ私こそ、えせものなので

正確なサンスクリットの発音わかりませんが

ローマ字におこした方でおとなえしました

 

ウィキには「ビサンマエイ」とありますが

これもちょっと違いますよね笑

この音じゃない

ヴィシュマイエ〜 に近いのでは?

 

まあええんですわ

素人なんで

かぎりなくエネルギーを寄せれる感じで‥

 

 

 

そしてほんとうに慈悲深い菩薩さまなんですね

はじめて知りました

マントラで唱えると一層にその慈悲深い温かさ

底知れぬ優しさ

はい、究極にすべてをひろってくださる

慈悲

それしかない

はかりしなれない大きな慈悲です

完璧なクシティガルバ、地蔵菩薩さま

 

 

なぜ水子さまを祀るところにお地蔵様がいらっしゃるかも

今回知った次第(すみません、無知で)

ウィキにも書いていますが

親より先になくなった子供達が

親を悲しませた罪で三途の川で鬼がいじめるくだり

それで救済のために地蔵菩薩さまが助けてくださる

いかにも日本的なって感じもしますが

親が悲しむからかって

子供は決してあちらの世界に逝くのに

さいなまれたりすることはないですよ

これだけは確か

あちらの世界からちゃんとお迎えもきてくれますし

 

 

マントラ(真言)唱えながら

毎回モーさんが今どんな状態かを霊視するのですけれど

(書きながらあ〜こういうのを「霊視」っていうんだと思った)

モーさんはとても朗らかで天真爛漫でした

(もう現世的な「形」はなくなっています)

 

子供でなくても

クシティガルバさまのことはみんな大好きになる!

 

ガルバとは子宮、体内のこと

みんなお母さんのお腹にいたのだから

また大きなお母さん(宇宙)にもどって包まれるのよ

そんな感じ

多分大人もみんな子供になって

宇宙の子供になって

すべての災難や罪、苦しみを贖ってくれる

許してくれる

あたたかくそのままになんの反省会もなくね

自分を責めるのはなくていい

今世で反省したらいいのだわ

反省というよりは内省か

 

 

そんなマントラだった

 

 

 

パソコンで調べてもどったら

ティコちゃんがくるまっていた

なんて愛らしいのだ