前回のブログの続きとなります
NHKラジオのアプリで
らじるらじるの「聞き流し」からひろってきた
カルチャーラジオ「文学の世界」にありました
<柳田國男と遠野物語>という
民俗学者の新谷尚紀先生の講義を聞いて
興奮してノートを
とったんですってことでした
 
しかも
「やなぎだ」と長年お呼びしていたのが
実は「やなぎた」だったっちゅう
驚きで終わっておりました
濁るか濁らないかで
これだけ名前のもたらす印象が変わるものかと
音ってやはりすごいことですし
お名前ですものね
 
それで改めていま
wikiで柳田國男の頁をみましたら
この方目茶目茶ええとこの出で
高級官僚でもあったのですね!
驚きです
民俗学の礎を作った人ということで
勝手に庶民的な人かと思っていました

こちら(官僚として)で順当に
バリバリに生きる道もあったと思いますが
そういう道を選ばなかった人なんですね

あえて当時の歴史学と
真っ向から反対するような
そうして歴史学では拾おうとしなかった
無視し続けられていた
日本の先住民である山の民に光をあて

日本人のルーツ
「日本人とは何か?」を
日本の山に入って
フィールドワークした方だったんだなぁと
改めてこの講義を聞いたあとに
まだ作品を全部読んでもないのに
wikiを読んで思いました
 
私にとって柳田國男といえば
今回の「遠野物語」と「蝸牛考」(かぎゅうこう)
日本の方言の分布図
これは大学で言語学として学びました
このときの講義を受けた印象
どの講堂で
どんな雰囲気だったかも覚えているんです
先生が「蝸牛考」の図を黒板に
書いていたことを後ろの方の席から
なるほど、すご〜いと思ったこと
不思議なものですよね
とても心に残っています
 
それでwikiを読んでいて
今の自分にも繋がる関わりとして
 
 
当時欧米で流行していたスピリチュアリズムの影響を受け、日本でも起こっていた「怪談ブーム」のさなか[注釈 2]で当時新進作家だった佐々木喜善と知り合い、岩手県遠野の佐々木を訪問して『遠野物語』を執筆する
 
 
でましたよ!
ここです、どこかわかりますか
どこかわかってくれたそこのあ・な・た
ありがとうございます
 
スピリチャアズムです!!
これは自分が今勉強中のヒーリングは
欧米の「近代ヒーリング」が土台となっていて
そうしてその前には歴史的には
スピリチャアリズム」があったということを
師より学んでおります
(もっと辿ればナザレのイエスの「手当て」もっと辿ればエッセネ派に結びついていきこのレベルは魂レベルで興奮のるつぼ、現在的には大興奮すぎて失神するくらい)
 
この時代はまさに西洋と東洋をまたぎますが
19世紀後半、そうです
私の心の師であります、魂の師であります
ヨーガの師であります
スワーミー・ヴィヴェーカーナンダとも関係してくるのです
このときにはスピリチャアリズムだけでなくて
「神智学」もでてきます
(もっといえば「ラーマクリシュナの福音」でも当時インドに本部をおいていた神智学についてタクールに信者が問うシーンが何度かでてきます)
 
てことで
自分的には
出たよ!!
出たわ〜〜!!みたいな
おばけよりリアルに出た!って感じです
 
だって前回のブログで書きましたように
今どっぷりはまっているような世界のことは
この本を手にとった
当時の自分は全く知らなかったわけですが

「遠野物語」との出会いは唯一の
当時としてはその言葉さえ知らなかった
「スピリチュアル」の原体験
それがこの本を通してだった‥


このブログを書くこと
基本的には
まあ単にご興味のある方は
この講義を聞いてもらえたらほんとうは
それでいいし
もしくは『遠野物語』を読めば
それでいいといえばいいだけのことなんですが

なぜあえてやっぱり自分が「書きたいのか」
自分にとって
「書く」ことの意味とは
こういう発見を書きながら見つけていくことであるんだと‥
ほんとうには自分のためだけに
書きたいだけで書いていて
しかしそれを読んでくださる方がいると思うと
これはほんとうに感謝しかないわけです
 
そうなんですよ
お連れさせてもらいますね
 
柳田國男が「遠野物語」を書く
岩手県遠野にフィールドワークしにいく発端
そのモチベーション、もしくは影響として
まさかに
「スピリチャアリズム」ありとは!!
 

(すでに当時の「怪談ブーム」なるものは無視していますけれど笑)

 
本当に人生とは
自分の好きなことだけしていたら
どんどん謎解きができてくるし
軌跡がより明確になり
パズルがはめられていく‥
光が当たっていく
そういう驚きです
 
 

(もふもふのお友達はティコちゃんです、必ずお邪魔しにきますよ)

 

 

それでこの「遠野物語」とは

明治43年・1910年

柳田國男35歳で発表しています


前年に遠野に行ったのですが

初版序文の出だしにこのようにあります

 

「此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」

 

この佐々木鏡石とはペンネームで

佐々木喜善(キゼン)という方で

この方から遠野の話を聞いておこしたのが

「遠野物語」となります

 

これが講義で新谷先生は

「遠野物語」の二つの側面を位置づけを指摘されています


当地の出身である佐々木喜善から聞いた

郷土である遠野の地の伝承

物語=メルヘンというのが一つの側面

 

ここで佐々木喜善についてwikiりますと

またまた面白い補足情報がでてきました

 

1908年(明治41年)頃から柳田國男に知己を得、喜善の語った遠野の話を基に柳田が『遠野物語』を著す。このとき、喜善は学者とばかり思っていた柳田の役人然とした立ち振る舞いに大いに面食らったという。晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている。

 

面白いですね

柳田のことを「学者」とばかり思っていたら

「役人然とした立ち振る舞いに大いに面食らった」って

自分としたら柳田國男のイメージとしては

なかった「役人然」はwikiの来歴にもあるように

喜善の印象からも

実際はやっぱりそんな人だったんですね(笑)

 

しかし東北の田舎の純朴で繊細な喜善からしたら

(知らんけど)

ほんとそのまあわかりやすくいうと

偉そーな態度に

「面食らった」もしくは

少々ムッともしたのでしょうか?


遠野の地の物語を喜善の強烈な

なまりとともに「役人然」さながら

眉間にシワをよせた官僚上がりのインテリの

柳田がノート片手に聞いていた‥


その対話はまるで映像のように想像できますね

そうイメージすることもまたこの物語の幅を

広げます

 そんな映画ができてもいいですね


そうしてこのwikiの記述のなかには

もう一つ気になるヒントがあります

そうです

喜善が話したとおりの

東北弁ではこの「遠野物語」は

語られていないのです


そのまま東北弁でおこしたら

東北以外の人は誰もわからないでしょう

当時の共通語に聞き手である

柳田によって置き換えられているのですね

(しかし現代人の私たちには明治の日本語はこれまた少々難しく感じます、現代人はだいぶと日本語的にも馬鹿になっておりますよ)

 

それで新谷先生は

この「遠野物語」のもう一つの側面として

喜善から聞いた遠野の物語を

当時の共通語におこしたと同時に

「柳田國男が再考した柳田の物語でもある」

っておっしゃています

 

これはなにかといいますと

前年には宮崎県の椎葉村にも出かけていて

柳田國男のなかには

遠野で聞いた山の地や、山の民の話とは

その地だけが特別で限定されているのではなくて


遠野の物語を通して

日本全国にある日本にもともと住んでいた

先住民の姿を見ているのだいうのです


どちらかというと

というか俄然

新谷先生のこの講義は

後者の側面を重視されています


 

朝廷(渡来系)に追われて

山の奥地にはいり

山の民となった

日本の島にもともといた先住民の末裔とは

この山の民なのであるということが

柳田國男が再考した遠野の物語なのだと

新谷先生はおっしゃいます

 


そうなんですね

このくだりを聞けば

たしかにこの山の民

日本に古来からもともといた

先住民とは

土蜘蛛(葛城)

大阪と奈良をまたぐ山々

葛城山系には高甘彦神社の近くにも

一言主神社の近くにも

土蜘蛛の塚や碑が残っていること

これは自分もフィールドワークしております

(まっ気になって目に止めたくらいのことですが笑)


あと

クマソ

隼人(ハヤト)

の存在があります



柳田は次のように講演しているそうです


「実は古代の天皇とその集団がこの島にやってきたときにはすでに幾多の先住民が住んでいたことは日本書紀や風土記には書いてあるではないですか」




遠野だけではないわけですね

日本全国の山々に

先住民の末裔が存在したこと

これを無視しては

日本の歴史をカバーすることにはならないと

柳田はしたわけです

この問題定義がすごいところです


「遠野物語」を書いた柳田とは

単に民俗学といういわゆる学問を作った人でも

単に遠野の地のメルヘンをひろってきて文学した

だけの人ではないわけです


それも官僚で

思いっきり権威主義で特権的な

国体的な思想をもっていてもおかしくない人がです!

「常民」と言われる「平地人」ではなくて

山の民=先住民に

フォーカスをあてたこと


新谷先生はおっしゃっています

柳田國男の偉業を

「マイノリティーの発見。注目」だと

「マルチカルカルチュアリズム・多文化主義」の先駆者であったわけです



今では通説となっているようなところでも

これは柳田のこの視点と

フィールドワーク、

遠野の物語がなければ

先住民にはスポットは

あたらなかったわけですから

で、日本の先住民とは

そのまま環太平洋にひろがるモンゴロイド

北米先住部族(ファーストネーション)

そこにも連なっていくわけです

(そのことについては以前ブログにかきました)



当時明治の終わり頃

歴史学では

こういった先住民の存在は

全く無視されていたわけです


それでこのことを柳田は当時の

歴史学の権威的な学会で発表した

「山人考」で

(柳田の活動に目をむけた京大の木田貞吉に招聘される)

堂々とつぎのように声高に述べたといいます



「現在の日本国民があまたの首族の混成だということは実はまだ完全に実証されたわけではないようでありますが、それは私の研究によりますとそれはすでに動かぬ通説となった。すなわちこれをすでに出発点とみなします」