(もふもふのお友達はティコちゃんです、必ずお邪魔しにきますよ)
それでこの「遠野物語」とは
明治43年・1910年
柳田國男35歳で発表しています
前年に遠野に行ったのですが
初版序文の出だしにこのようにあります
「此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」
この佐々木鏡石とはペンネームで
佐々木喜善(キゼン)という方で
この方から遠野の話を聞いておこしたのが
「遠野物語」となります
これが講義で新谷先生は
「遠野物語」の二つの側面を位置づけを指摘されています
当地の出身である佐々木喜善から聞いた
郷土である遠野の地の伝承
物語=メルヘンというのが一つの側面
ここで佐々木喜善についてwikiりますと
またまた面白い補足情報がでてきました
1908年(明治41年)頃から柳田國男に知己を得、喜善の語った遠野の話を基に柳田が『遠野物語』を著す。このとき、喜善は学者とばかり思っていた柳田の役人然とした立ち振る舞いに大いに面食らったという。晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている。
面白いですね
柳田のことを「学者」とばかり思っていたら
「役人然とした立ち振る舞いに大いに面食らった」って
自分としたら柳田國男のイメージとしては
なかった「役人然」はwikiの来歴にもあるように
喜善の印象からも
実際はやっぱりそんな人だったんですね(笑)
しかし東北の田舎の純朴で繊細な喜善からしたら
(知らんけど)
ほんとそのまあわかりやすくいうと
偉そーな態度に
「面食らった」もしくは
少々ムッともしたのでしょうか?
遠野の地の物語を喜善の強烈な
なまりとともに「役人然」さながら
眉間にシワをよせた官僚上がりのインテリの
柳田がノート片手に聞いていた‥
その対話はまるで映像のように想像できますね
そうイメージすることもまたこの物語の幅を
広げます
そんな映画ができてもいいですね
そうしてこのwikiの記述のなかには
もう一つ気になるヒントがあります
そうです
喜善が話したとおりの
東北弁ではこの「遠野物語」は
語られていないのです
そのまま東北弁でおこしたら
東北以外の人は誰もわからないでしょう
当時の共通語に聞き手である
柳田によって置き換えられているのですね
(しかし現代人の私たちには明治の日本語はこれまた少々難しく感じます、現代人はだいぶと日本語的にも馬鹿になっておりますよ)
それで新谷先生は
この「遠野物語」のもう一つの側面として
喜善から聞いた遠野の物語を
当時の共通語におこしたと同時に
「柳田國男が再考した柳田の物語でもある」
っておっしゃています
これはなにかといいますと
前年には宮崎県の椎葉村にも出かけていて
柳田國男のなかには
遠野で聞いた山の地や、山の民の話とは
その地だけが特別で限定されているのではなくて
遠野の物語を通して
日本全国にある日本にもともと住んでいた
先住民の姿を見ているのだいうのです
どちらかというと
というか俄然
新谷先生のこの講義は
後者の側面を重視されています
朝廷(渡来系)に追われて
山の奥地にはいり
山の民となった
日本の島にもともといた先住民の末裔とは
この山の民なのであるということが
柳田國男が再考した遠野の物語なのだと
新谷先生はおっしゃいます
そうなんですね
このくだりを聞けば
たしかにこの山の民
日本に古来からもともといた
先住民とは
土蜘蛛(葛城)
大阪と奈良をまたぐ山々
葛城山系には高甘彦神社の近くにも
一言主神社の近くにも
土蜘蛛の塚や碑が残っていること
これは自分もフィールドワークしております
(まっ気になって目に止めたくらいのことですが笑)
あと
クマソ
隼人(ハヤト)
の存在があります
柳田は次のように講演しているそうです
「実は古代の天皇とその集団がこの島にやってきたときにはすでに幾多の先住民が住んでいたことは日本書紀や風土記には書いてあるではないですか」
遠野だけではないわけですね
日本全国の山々に
先住民の末裔が存在したこと
これを無視しては
日本の歴史をカバーすることにはならないと
柳田はしたわけです
この問題定義がすごいところです
「遠野物語」を書いた柳田とは
単に民俗学といういわゆる学問を作った人でも
単に遠野の地のメルヘンをひろってきて文学した
だけの人ではないわけです
それも官僚で
思いっきり権威主義で特権的な
国体的な思想をもっていてもおかしくない人がです!
「常民」と言われる「平地人」ではなくて
山の民=先住民に
フォーカスをあてたこと
新谷先生はおっしゃっています
柳田國男の偉業を
「マイノリティーの発見。注目」だと
「マルチカルカルチュアリズム・多文化主義」の先駆者であったわけです
今では通説となっているようなところでも
これは柳田のこの視点と
フィールドワーク、
遠野の物語がなければ
先住民にはスポットは
あたらなかったわけですから
で、日本の先住民とは
そのまま環太平洋にひろがるモンゴロイド
北米先住部族(ファーストネーション)
そこにも連なっていくわけです
(そのことについては以前ブログにかきました)
当時明治の終わり頃
歴史学では
こういった先住民の存在は
全く無視されていたわけです
それでこのことを柳田は当時の
歴史学の権威的な学会で発表した
「山人考」で
(柳田の活動に目をむけた京大の木田貞吉に招聘される)
堂々とつぎのように声高に述べたといいます
「現在の日本国民があまたの首族の混成だということは実はまだ完全に実証されたわけではないようでありますが、それは私の研究によりますとそれはすでに動かぬ通説となった。すなわちこれをすでに出発点とみなします」