昨日、三時すぎにに岸和田の「そば切り摂河泉」をでて

先週のアーユルヴェーダ初級講座中にちょうど足を運んでくれた

宇佐美フサ先生堺市浜寺にあるアーユルヴェーダサロンに向かった

4時からのアビヤンガ(全身オイルマッサージ)を予約させてもらっていたからだ




はじめてくるところかつ岸和田からだったので、間に合うかはやる気持ちであったが

無事四時前に比較的新しそうな立派なクリニックモールに到着した

エレヴェーターで三階にあがり

ここかな~~と開いた状態の扉の中

風通しのよいお部屋でフサさんの背中が優しく目にはいってきた



フサさんは足をなげだして

アーユルヴェーダの初級、中級、上級の講座のテキストをひろげて

復習されていた


このお姿で出迎えてくれた



フサさんはときどきこうやって見返しては復習するのだという

テキストに印刷されたことよりも自分のメモ書きを見返すから

「あんたもようようにテキストにメモしたほうがいいよ」と有難いお言葉を頂く


ワタシは先週終わってまだ一度もテキストを広げて復習していないとほほ
恥ずかしい気持ちをぐっとのみこみながらフサさんのように学ばないとと心に刻んだ

ほんとにフサさんはすごい…ふつうではない

ほんとに頭があがらない


フサさんは73歳からヨーガをはじめ

89歳アーユルヴェーダ初級講座 

90歳中級91歳上級

92歳でこの5月、浜寺のクリニックモールの三階で

アーユルヴェーダのサロンとヨーガ教室を開かれた



フサさんの存在アーユルヴェーダ初級講座の何日目だったか?

フサさんのお話をバット先生が講義の中でされていたのだ

そのときはそんなすごい人がいるのか~とへえ~すごい人がいるもんだと

まあ遠い存在のように聞いていた…




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バット先生のお声が聞こえたのだろうか

フサさんは翌日

「ちょうどお客さんの予約もないし、
         何の考えもなしに気づいたらしぜんと西宮にむかって身体が動いていた」と

ニケタン(アーユルヴェーダ講座会場)にひょっこり現れてくれた


バット先生が椅子を用意され

宇佐美フサさんは上級者コースも卒業され今現在はアーユルヴェーダセラピストとして

わたしたちの先輩としてお話をしてくれた


こうやってアーユルヴェーダの施術がこの歳でできるのは
(世間一般にはありえないこと)





「 それはただ無になって、手を動かしているだけ
  
  かみさまの手足になり、ひとさまのためになればいい ただそれだけ…

  
  技術や知識を身に付けることももちろん大事です

  でもそれ以上に 無私 を学ぶこと これが一番大事です 」






ワタシはこのときたまたま毎回の席の関係で一番前だった

フサさんのこのお言葉が直球どストレートでこころに響いた

ほんとに全身に響いた



アーユルヴェーダでは

その人それぞれの身体的精神的特徴、特質、または体質・気質のことをプラクリティとよぶ

このプラクリティ、体質を現すドーシャという考え方が健康という考え方のベースとなる

アーユルヴェーダにおいてのプラクリティとは

まさに目に現されるこの身体のことであり

言語化された感情やこころそのメンタリティーに関わってくる

では

プラクリティと聞けば、ヨーガを勉強していたら必ずでてくる
(ワタシのなかで最近よく出てくるワードでもあった)

プルシャという二項対立

ヨーガもアーユルヴェーダもサーンキャ哲学のこの二元論的思想の影響をうけている

プラクリティが顕現された

この世に現された、わたしたちの心身の状態、健康の状態 であるならば

プルシャという未顕現の「見るもの=真我」とは

アーユルヴェーダではどう捉えらえるのか?

このことがワタシの中でずっと疑問であった

アーユルヴェーダにおけるこのプルシャという位置づけ

その背景に興味があった


質問会も講義後にあったが、なかなか切り出す雰囲気もないし

哲学を哲学するような

机上の空論(言葉がただ思考するだけでなんの経験もない)でしかないこともわかっていた


答えは

フサさんにあった


プルシャという真我とは、

プラクリティの「見られるもの」という対象者に対して

プルシャは「見るもの」という存在

「ただ見るもの」という存在

そこには「ワタシ」はあってならない

フサさんがいう「無私のこころ」とはまさにこのことだ

「無私」こそが「真我」=プルシャ



対象者(クライアント)あっての「見るもの」という施術者にとって

人に癒しを与える人間にとって人のためになろうと思う者にとって

エゴはいらない

フサさんの「無私を知れ、無私を学べ」とはこのことなのだ…


技術、知識を学ぶということは大変なことでもあるが、ある意味簡単だ

この無私を学ぶということこそ本当に人生においての大きな試練である





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フサさんは四回結婚されている

二人目にできたお子さんが生まれるまでは看護婦をされていた

息子さんが障害者であったため

この子を何とかしたいという一心で
(米子の内観で母親である自分自身が変わらないとダメだと云われ)

43歳で住み込みの家政婦になられた

三日で鼻高く仕事していた看護婦というプライドは崩されたという

以後十年布団で寝ることなく亡くなられるまで病人のそばに付き添った

布団で寝たときはほんとに気持ちよかったよ~と

誰かに布団で寝るなと言われたのではない

なんでもとことん実行する 人のためにつくし我をなくし

息子を助けたいというその一心





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ステンドガラス作家さんであり先生であった旦那さんがお怪我されて

63歳でステンドガラス作家となりカルチャー教室の講師になられた

勉強のために本場フランスに2回渡る

西宮のニケタンのこのステンドガラスを作成には84歳から4年かけたという

この題材のためにカイラスにも登っている…




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この写真は今里にある教会のステンドガラスの写真パネルだが(サロンに飾られていた)

この教会のステンドガラスが報道されて全国から依頼があり、個展をしたりして

そのお金を貯めては四回カイラスに登ったというからほんとに言葉がでない

空気の薄いところで瞑想するのは

こんなところで瞑想するのと全然全く違うという…



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サロンの衝立のステンドガラス



施術の最後、ベットに仰向けのワタシの前にフサさんは座られて

アビヤンガ(オイルマッサージ)で、たくさん汗もだし悪いものも全てだしきり

生まれ変わった自分を瞑想しなさいと



お母さんのお腹のなかにお母さんと繋がっていて

お母さんの力と自分の力で一生懸命産道を通ってこの世に生み出され

はじめて産湯に使っている、いまがその時なのです

この世にはじめてたくさんの人の愛情で生まれてきたことに感謝し

育ってくるまでにお母さん、お父さん、家族の愛を頂いてきたことに

今生かされている自分を思いなさい


オイルがからだに浸透したように

いやそれ以上にフサさんの言葉がかみさまからのお声のように

わたしの身体にこころにもっと奥深いところに染み込んだ…





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フサさん今現在はもう運転されていないが来年までその期限があるという

免許証

帰りはご自宅までドライブ、ほんと愉しいドライブだった

ご自宅に着くとその前から何匹も猫を見つけていた

フサさんと車を降りるとにゃんこたちがお帰り~~と寄ってくる

その中でも黒猫ちゃんがありがとうって意味かな…足に擦り寄ってくれた

猫派の私

猫は人の感情を読み取る

フサさんの深い愛が好きなんだろうな居心地いいんだろうな…




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サロンで施術後に頂いた御馳走(軽食とご本人はいわはるけど御馳走です)

終わってすぐ帰ってもらうのもつまらんでしょ

「癒しの里」って名前つけてるからみんな喜んでくれたら嬉しいからと

ほんと美味しく頂きました

そば切りの守岡さんから次いくところに持っていきと渡されていた

ほおずきをここでお渡しした


それにしてもフサさん、片付けといいお食事を出すことといい

ほんと手際がいい、やることがぱぱぱっと早い!!

普通にいう93歳ではない…

この尋常でない健康は

20年間アビヤンガというアーユルヴェーダの施術してもらってきたから

この実体験でその良さがわかっているからこそのアーユルヴェーダを世に広めたいと

その土台を私は作らさせてもらうだけど

早くほんとは隠居したいのよ~て

頑張りますから~~~もうちょっとフサさん宜しくお願いします




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ついさっきは「摂河泉」で美味しいお蕎麦を頂き

そしてフサさんに施術後、ご飯頂き

こんな1日がホントにあるのかと…贅沢にすぎました




オイルマッサージは当たり前だが手技

やっぱり人の手なんだ…


その人の手にはその人の歴史と

無私のこころ

そのこころはどこまでも響いてくる

そのこころが込められた手による癒しこそがフサさんのアビヤンガ・トリートメント


私もいつかフサさんのようなこころをもち、そのようなをもちたい





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