最後の愛猫との別れ | マサノリのブログ

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 わが家の猫としては最後の家族が、

2024年5月15日に昇天しました。

名前は美代(みよ)。雌。16歳1か月。

いつもそばにいてくれました。

私にとって無二の伴侶でした。

私の手のひらは、何度も美代の体をなでた柔らかい感触と

ぬくもりをしっかりと覚えています。

 

 血液検査で美代の腎臓の機能低下を示す数値が出始めたのは

2022年夏からでした。

そのころクレアチニン(CRE)は2・8で、

療養食を食べさせるようにしていましたが、徐々に悪化。

2023年3月末には6・1、

血中尿素窒素(BUN)も113まで上昇し、

かかりつけの動物病院から

自宅での皮下補液(点滴)を勧められました。

母が美代の体を押さえ、私が針を刺し、

4月2日から開始しました。

初めは1日50ml、次いで80ml、100ml、

最後は125mlまで増やし、150mlにした時期もありました。

 

 今年1月には東洋医学の獣医師さんにも相談し、

毎晩、温灸を始めました。

もぐさを炭で固めた棒灸の先端に火をつけて体に近づけ、

体の内部を温めて免疫力の向上を目指すのです。

美代の皮下補液と温灸はわが家の一日の最も大事な行事でした。

 

 毎日の皮下補液は一定の効果を示し、

始めて4か月後の23年8月中旬には

CRE3・0、BUN62まで改善し、

今年1月初めの時点でもCRE3・8と踏ん張っていました。

皮下補液を始めて1年ぐらいは体重も大きな変動はなく

2・2kgぐらいで推移していました。

しかし、うんこが少ないことが気になり、

今年4月7日に体重を測ったところ1・68kgしかなく、

4月9日の受診でCRE5・6、BUN140に上昇していました。

16歳という年齢もあり、やむを得ないと

なかばあきらめました。

 

 今年4月7日からは補液前に毎日、

美代の体重を測り、カレンダーに記入。

前日より少しでも増えたと喜ぶこともありましたが、

やはりじりじりと減り、

5月12日の1・45kgを最後に測るのをやめました。

そのころはもう美代の「お迎え」が

きょうかあすかと覚悟していました。

 

 美代がわが家にやって来たのは2008年4月。

母が外出から帰宅すると、軒下のかごの中で、

子猫がスースーと寝息を立てていたそうです。

体は手のひらに載るくらいの小ささでした。

庭が広いので、今から3年ほど前までは、

ほかの猫たちと同じく、外に出たがるときは

出して遊ばせていました。

美代は狩りがうまく、

外に出すと、スズメやネズミ、モグラなどを

くわえてくることがよくありました。

だんだん完全室内飼いに移行したのは、

事故などの心配だけでなく、

こうした小動物の被害を出さないためもありました。

 

 家の中でもよく歩き、水道の蛇口から

水を飲むのが好きでした。声がかわいく、

動物病院の待合室で、ほかの飼い主さんから

声をほめられたこともあります。

私の部屋は2階にありますが、わが家の歴代の猫の中で、

毎日ほぼ欠かさず2階に来たのは美代だけです。

パソコンに向かっているときなど、背後にかすかな物音がして

「来たな」と思って振り向くと、はたして美代が近づいてきて、

私の顔を見上げます。

そうしたら私は必ず美代をなでました。

闘病が始まって美代の最期を意識してから、

私は手のひらに精いっぱい愛情を込め、

時間をかけてなでるようにしました。

 

 私は9年前に51歳で会社をやめ、家にいるので、

昨年12月に13歳で死んだ輝子(こうこ)と美代とは、

一緒に過ごした時間が長かったです。

2階に来た美代に「ほら、こんなに天気がいい」

「きょうは雨だよ」とか、よく話しかけたものです。

美代は私の胸や腹の上にのるのも好きで、

亡くなる前の1年くらいは毎日、

夜が明けないうちに2階に上がってきて、寝ている私にのり、

「起きろ、起きろ」とでも言うように、

前脚で私の顔を軽くたたくのでした。

 

 闘病が長くなるにつれ、

天気の良いときは窓際でじっと座っていたり、

昼寝したりする時間が増え、

蛇口から水を飲むため流し台に

跳び上がることはできなくなっていました。

流し台の下に来て水が飲みたそうなときは

私が抱いて上げるようになりました。

ほぼ欠かさなかった2階に上がることも

今年4月17日が最後となりました。

 

 最後の受診となった5月12日は、弟に車を運転してもらい、

私は後部座席で美代をひざにのせ、行き帰りしました。

先生は「長患いで体の塩分バランスが崩れているのではないか」と言い、特別に調合した輸液を点滴しました。

これで元気が出てくれればと思いましたが、

気休めにしかならなかったようです。

 

 そして5月14日が来ました。

美代は朝から何も食べようとせず、横になっていたので、

私は「きょうがお迎えか」と、また気持ちが沈みました。

それでも強制給餌を試み、シリンジで少しずつ約50mlを

飲ませることができました。

また、毎日昼過ぎにやっていた皮下補液を150mlやったところ、多少元気が出たのか、体を立てて窓辺に座っていたので、

きょうは持ちこたえるかと思い、

外へ散歩に連れていくことを決めました。

 

 脚がだいぶふらついていたので、

浅い段ボール箱のふたを取り、バスタオルを敷き、

リードをつけた美代を乗せて外に出ました。

心地よい風が吹くなか、

かつていつも遊んでいた庭に出た美代は、

自分の脚で少し歩き、

草の上に座ってあたりを見回していました。

そしてまた私は美代を箱の上にのせ、

近所を歩いて回りました。

日差しが強かったので、疲れないように

20~30分で切り上げ、

明日も体調を見ながら一緒に散歩しようと思ったのでした。

 

 その夜遅く、キャットハウスで寝ている美代を見にいくと、

入口に頭と前脚を出して横になり、

間欠的に小さなしゃっくりのような

動作をしていました。異変を感じた私は

美代をハウスから出して座布団に寝かせ、

温灸で体を温めようとしました。

就寝していた母も起こして二人で見守り

「美代!美代!」と呼びかけました。

美代の腹部の上下動が次第に小さくなり、

いつ鼓動が止まったのか分からないほどでしたが、

5月15日に日付が変わって15分ぐらい過ぎたところで、

完全に動かなくなったことを確かめました。

薄く開いていた両目を閉じてやりました。

私と母にしっかり看取りの時間をくれて、

孝行娘だなと私は思いました。

 

 なきがらを居間の真ん中の座布団の上に移し、

白タオルをかけました。ここは5カ月前、

「妹」の輝子(こうこ)が息を引き取った場所です。

私は美代のそばで一夜を明かし、

15日の朝、動物霊園に電話をかけ、

午後の火葬を申し込もうとしましたが、

15日は予約でいっぱいで、16日午前9時からとなりました。

自宅敷地に咲いていた白いオダマキのほか

花屋で買った菊やユリ、白いナデシコ、

紫のチドリソウなどの切り花を手向け、

また美代のそばで過ごしました。

 

 火葬当日はくもりでしたが、ちょうどよい気候でした。

14日の最後の散歩で使った段ボール箱に美代と花をのせ、

家の中を一周して美代に見せてから、

私と母、それに弟の3人で出発しました。

到着して美代を台の上に横たえると、

ほかの猫たちにもしてきたように美代の顔に私の額を押し付け、

お別れを伝えました。約1時間半後に火葬は終わり、

わずかなお骨を拾って帰ってきました。

美代の骨箱は輝子と並べて、居間に置いています。

 

 今、自分のしてきたことを振り返って、

もともと外で遊ぶのが好きな猫だったのに、

どうしてもっと早くから

散歩に連れていってやらなかったのかとか、

階段を上がれなくなってから

どうして抱っこして2階に連れてきてやらなかったのか、

など悔いばかりです。

腎不全の予防対策や、病気になってからも、

もっとやれることがあったのではないか、

という後悔ももちろんあります。

ただ、いたらない飼い主だったけれども、

曲がりなりにも美代の世話をやり終え、

大きな肩の荷を下ろした感覚もあります。

 

 わが家は父と母が1982年に家を建て、

翌83年に犬1匹を迎えたのを手始めに、

2003年まで犬3匹と暮らしました。

そのうちの2匹が死んだ1998年からは、

野良の猫も家族に迎えるようになり、

出ていった猫も含めると

累計20匹ぐらいの猫と暮らしました。

一番多いときは10匹以上の猫がいる「猫屋敷」でした。

 

 美代も大家族の時代を経験しましたが、

2015年に相次いで3匹が死に、

16年と21年にそれぞれ別の1匹が失踪。

21年12月に豆蔵(雄、18歳)が死んでからは

輝子と2匹だけになり、

そして昨年12月15日に年下の輝子が先に逝ってしまい、

1匹だけになりました。美代も寂しかったろうと思います。

 

 私の91歳の父は21年4月に肺炎で入院してから

自宅に戻れなくなり、老人ホームにいます。

60歳の私は、会社員時代に転勤で

犬や猫と離れていた期間がありますが、

88歳の母は40年間ずっと犬か猫がそばにいる生活でした。

それだけに「なんもかも寂しい。みんないってしまった」と、

実感を込めるのです。

美代が死んで数日間は泣くこともありましたが、

「でも、楽しかったな」と

つぶやく場面もやっと出てきました。

 

 砂を入れた猫トイレやキャットハウスは、

今もそのまま置いてあります。

もうしばらく片づけないつもりです。

外出から帰った母は今も習慣から「ミヨ」とか「コッコ」と、

家の中に呼びかけることがあります。

私は満月の浮かぶ晴れた夜空を見上げ、

美代はもう天国に着いたかな、そして先に逝った猫たちと

再会しているかな、と思ったりします。

一方で、わがファミリーの犬も猫も

姿が見えないだけで、この家にいて

母や私のそばにいるかもしれないといった想像も浮かぶのです。

彼らにとってのふるさとは、この家にほかならないし、

目に見えない遥かなものたちが、

私たちを支えてくれていることもあるでしょうから。

               (2024年5月25日)

 

(冒頭の写真は2022年10月の美代。台所の流し台の上で)

 

【4歳のころ=2012年4月】

 

【美猫と言われたことも=17年2月】

 

【筆者の机の上に座る=17年2月】

 

【筆者の腹の上で=17年5月】

 

【皮下補液開始1か月後、2階ガラス戸の前で=23年5月】

 

【キャットハウスの中で=24年5月2日】

 

【旅立ち4日前。だいぶやせて=24年5月10日】

 

【旅立ち当日、外を見る。このあと散歩に出た=24年5月14日】