愛猫との別れ | マサノリのブログ

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2023年12月15日、

またかけがえのない家族が旅立ちました。

わが家の末っ子、雌猫の輝子(こうこ)です。

13歳2カ月でした。

生後間もなく左目を失ってしまいましたが、

いつも元気で私たち家族のそばにいて、

名前の通り、家の中を照らし、

大きな喜びと幸せをもたらしてくれました。

 

母の日記によると、

「めをけがしたこねこ」が軒下に現れたのは、

2010年10月11日と記されています。

子猫でしたが、すでに左目は真っ赤で、

すぐに治療が必要と思われました。

軒下に、ふたのない木箱があって、そこに入っていたのです。

逃げないようにふたをして、箱ごと家の中に運び入れました。

私は当時まだ会社に勤めていたので、

母が運転して動物病院へ連れて行きました。

左目はもうだめで、摘出するしかありませんでした。

獣医師さんによると、けがではなく、結膜炎か何かの病気で、

かゆいので自分で掻いて、悪化させたのだろう、

ということでした。

 

輝子(こうこ)と名づけたのは、今88歳の母です。

「輝」の字は本来「こう」とは読まないのですが、

偏(へん)の「光」は「こう」と読むし、

片目を失った子猫に「光の軍隊」と書く文字を与え、

明るい将来を願ったのです。

「こうこ」が名前の正式な読みですが、

日常では、よく「こっこ」と呼んでいました。

その方がなんとなくかわいらしかったからです。

 

輝子が家族に加わったとき、

わが家には10匹ぐらい猫がいました。

体は小さかったのですが、先住の兄や姉たちの間で、

元気いっぱいでした。

ただ一つ、先住猫たちと違ったのは、

輝子が完全室内生活だったことです。

当時、輝子以外の猫は、

出たがったときには外に出していました。

しかし輝子は片目のため、

外に出しては、ほかの猫に襲われたり、

人にいたずらされたりしないかという心配もあって

出しませんでした。

 

夜、眠る場所はいつも母の枕元でした。

90歳の父は2021年4月に肺炎で入院し、

その後施設に入居したので、

母と私は2人暮らしですが、食卓のいすに座っていると、

ひざの上に飛び乗ってきて、

ときどき、まん丸い大きな右目で母や私を見上げ、

いつまでもくつろいでいました。

輝子の顔をみながら「こっこ」と呼ぶと、

よく「ニャア」と答えてくれたものでした。

初対面の人には、はじめこそ警戒するものの、

すぐに警戒心を解いて寄ってくる、人懐こい性格でした。

 

もともと体は小さいのに食欲は旺盛で、

若いころは体重3キロを超え小太りでした。

ところがここ2年ぐらい、おう吐が頻繁になり、

じりじりとやせてきました。

亡くなったころの体重は、

若いころの半分以下の1・5キロほどになり、

体をなでると背骨やあばら骨がはっきりと分かるほどでした。

獣医師さんには、おう吐と痩せについて何度か相談しました。

猫伝染性白血病、猫伝染性腹膜炎など

生来のウイルスなどによる病気が

可能性として考えられるとされましたが、

はっきりとはわからず、

免疫力向上を図る注射などしてもらっていました。

 

2023年11月30日には、

一日に三回もおう吐するなど目立って体調が悪化。

12月1日、9日、13日と続けて動物病院に通い、

一時的に回復したように見えたのですが、また悪化し、

ついにその日は来ました。

 

明け方に輝子がドライフードを食べる音を聞き、

安心したのもつかの間、朝のうちに吐いてしまうと、

そのあとは食べられず、水も飲めず、

居間のテーブル下に敷いた座布団に横になっていました。

外が暗くなってきたころ、輝子の呼吸が弱く小刻みになり、

そばについていた私は、隣の台所にいた母を呼びました。

ぐったりした輝子は

何度か顔をしゃくりあげるような動作をしました。

そのとき私は2015年8月に愛猫ナットーを看取ったときも、

臨終のとき同じような動作をしたことを思い出して悟りました。

「ああ、輝子がいってしまう」と。

そして耳元で「こっこ!」「こっこ!」と繰り返し呼びました。

時計を見ると午後4時55分ごろでした。

うっすら開いた右目のまぶたを閉じてやりました。

朝から降っていた湿った雪は、雨に変わっていました。

 

翌16日も冷たい雨でした。

お世話になっている盛岡市内の動物霊園に電話をし、

午後3時からの火葬を予約しました。

出発前に92歳のおば(母の姉)がタクシーで駆け付け、

輝子に最後のお別れをしました。

私は段ボール箱に寝かせた輝子のなきがらを抱き、

13年間を過ごした家の中を回って見せました。

後部座席に母と輝子を乗せ、霊園に向かい運転しながら、

晴れた日に輝子を荼毘(だび)にふしてやれないことを、

本当に残念に思いました。

 

霊園では、菊やカーネーションなどの花で輝子を覆い、

また「こっこ」「こっこ」と名を呼びながら体をなで、

輝子の顔に自分の顔を押し当て、火葬炉へと見送りました。

輝子のお骨は本当に小さくて少なく、

てのひらの上にのるぐらいの骨箱に収まりました。

今まで愛猫を火葬したときは、

お骨をそのまま霊園の共同納骨堂におさめていましたが、

骨となった輝子でも、もう少しそばにいてほしいので、

家に持ち帰り、居間に置いています。

 

母は「輝子がいなくなって、なんもかんも寂しい。

家族以上の家族だったもんな」とか、

「輝子の存在は大きいな。

そこの座布団の上にいねえのが不思議な感じ」などと、

毎日のように、ぽつりぽつりと独り言をもらします。

私も「本当にそうだな」と相づちを打つばかりです。

(なんもかんも=「とっても」とか「非常に」を強めた方言)

 

輝子の体調が悪化するなか、12月12日には、

犬や猫に東洋医学を施している獣医師さんにも診てもらい、

漢方薬を出してもらい、体の内部を温めて免疫力を高めるという

お灸のやり方を教わり、道具も借りてきました。

これから毎晩してやろうと、その晩から温灸を始めましたが、

14日までのわずか3日間しか、してやれませんでした。

輝子のおう吐と痩せにもっと早くから危機感を持ち、

八方手を尽くしていればと後悔しています。

 

失って半月がすぎましたが、

家の中のどこを見ても輝子を思い出します。

朝起きて、自室のある二階から階段を下りていくとき、

よく階段の下で待ち受けていた姿も、

台所で炊事をしていると、よく足元に来て、

なにかちょうだいと上を見上げていた姿も。

最期が迫っていた12月11日夜から12日朝にかけてと、

12日夜から13日朝にかけての二晩、

私は輝子のそばで仮眠をしましたが、

12日早朝、目覚めると、

輝子は私の左腕にのって眠っていました。

12月9日、13日の動物病院からの帰り道は、

輝子をキャリーバッグから出し、

ひざの上にのせて運転しました。

輝子が私を信頼して寄り添ってくれたひと時ひと時が、

いまは限りなくいとおしいです。

 

かつては猫屋敷だったわが家も、輝子を失い、

猫は美代(雌)1匹だけになってしまいました。

15歳8カ月(23年12月現在)ですが、腎臓が悪くなり、

23年4月から自宅で毎日皮下補液をしています。

 

輝子の体は元素となって、無窮の大自然に帰りましたが、

その心や魂といった目に見えない大切なものは、

無に帰するのでしょうか。

いつのときにか、また別の猫として、

ほかのだれかに幸せをもたらすため、

生まれ変わってくるのではないか。

それまで神さまのもとで、休息のときに入ったのではないか。

そう考えることが私にとって、悲しみの底の希望です。

そして、また今度生まれ変わってくるときには、

かわいい輝子よ、

どうか二つのきれいな目を損なわれないようにね、と。

          (2023年12月31日)

(冒頭の写真は2022年10月の12歳の輝子)

輝子4歳。いつも家族と一緒でした(写真上)

5歳の輝子。太っていました(写真上)

これも5歳。窓際からジャンプ(写真上)

輝子6歳。夜、寝る場所はいつも母の枕元(写真上)

亡くなる2カ月前、美代と。かなり痩せています(写真上)