よい市長になるには、料理の腕も欠かせない。


僕はここんところレトルトカレーとパスタを主食に生きていたのですが、久しぶりに料理に挑戦しました。

ナスと豚肉の味噌炒め!

市長になりたい!-なす

案外簡単でした。

料理って、作ってみると意外に簡単でおいしいから、「今度からレトルトじゃなくて料理つくろう」ってその時は思うんだけど、なかなか続かないんですよね。

****
『日経をちゃんと読む』キャンペーン実施中
順調です。
ただ、電車での移動中に読む事がメインだったので、外出の予定がない休日は意識的に読まなければならず、ちょっとめんどくさかったです。
おもしろいWEBサービスの紹介。

2chの掲示板を徘徊していると、あまりにも価値の低い書き込みに対して、

「チラシの裏で書いてろ」
「ちらうら」(上の表現の略ver)

などと書かれていることがよくある。

しかし実際、1人暮らしの人で新聞を取っている人はそう多くないだろうし、例え新聞を取っていたとしても、何かを書きたいその瞬間に、チラシがすぐ手の届くところにあることはまずないだろう。
何かの想いを綴りたい、でも手元にチラシがない。そんなときに使えるフリーソフトを見つけました。

それが「チラシの裏」。
説明によると、機能的にはメモ帳の劣化版らしいです。
低機能であることを誇る自信満々な感じ。たまりません。

           ■ 特徴 ■
- ファイルを開いたり新規保存したりできません
- 「MS Pゴシック・12ポイント」固定なのでAAがずれません
- 熊先生 (世界史担当)のAAを標準搭載
- XPヴィジュアルスタイル対応

市長になりたい!-ちらうら


昔懐かしいチラシの裏に思う存分自分の想いを書きなぐりたい人は、使ってみてはいかがでしょうか。

チラシの裏
http://yuukiremix.s33.xrea.com/chirashi/


p.s.一回使った後速攻で削除しました。

自分がゼミで作ったレジュメをコピペしただけなので、読みづらいのは勘弁してください><

(1)福祉の解体
◎福祉の機能
=市場経済の中の弱者に対して、市場を経由しないで富を再分配すること
(財政を動員して、市場の外で所得を再分配し、社会的弱者を市場に参入させ、国内市場を拡大し、生産の拡大を促す)

◎グローバル化による福祉の解体
しかし、福祉国家は国民経済を前提としていたため、経済がグローバル化し市場が海外と直通になったことによって、一国の福祉機能の維持が無意味となった(市場が海外と直通になってしまうと、法人税が上がってこなくなる)。
=経済のグロ―バル化によって、金銭的な補助という形の福祉は破綻!
⇒“現物給付”という形で福祉を行う必要があるのでは?

(2)新しい福祉の形態
◎福祉の“現物給付”
地域コミュニティを活発化し、住民同士が相互扶助的にサービスのやり取りをするような社会を創出することが、新しい福祉の在り方なのではないか。

◎地域コミュニティの必要性
「国は地方自治体へ、地方自治体は住民に、場合によっては行政権限の一部を任せることも必要になるだろう。その場合に地域のコミュニティが確立され、きちんと機能していることが前提になる。農村は都市への人口流出によって、都市部はさらなる都市化によってコミュニティが失われている。コミュニティをどう再生し、住民側の受け皿をどうするか。まだそこがはっきりしない。」(『福祉NPO―地域を支える市民起業―』192ページ)
⇒コミュニティを活性化する手立てが必要!

◎新しい地域コミュニティの在り方
<従来の地域コミュニティ> <新しい地域コミュニティ>
地縁や血縁、仕事(農業)によるつながり ⇒ 同じ境遇や趣味によるつながり
   (=公共性と個人主義の両立)

⇒市民団体やNPOが新しい地域コミュニティになりうるのではないだろうか。

(3)こんなのどうすか的雑記
・自治体は公共事業の代わりにNPOに資金を投じたらどうか(雇用も生まれる?)
・ワークシェアリングを推進し、1人当たりが働く時間を減らし、地域コミュニティや家族で費やす時間を増やす。
・寄付への価値観を変える。


****

『日経をちゃんと読もう』キャンペーン実施中

継続中。でも読み慣れるにつれて、記事のジャンルの好みが固定化して、読み飛ばすジャンルが増えてしまった。
新聞の上手な読み方ってどうすればいいんだろう。
つい数時間前に真面目な記事を書いたから、時間あったらそっちのほうも読んでやってください。
教育と学習


****

しばらくお休みしていましたが、今週のキャンペーンは、『日経をちゃんと読む』キャンペーンです。

先日から日経を購読し始めたので、読む習慣づけを今しています。

朝うちを出るときに、一緒に持って出るといいみたいです。で、電車の中で読む、と。

なんだか頭が良くなった気分がして実に気持ちいいです。

そして大学で誰か友人にプレゼント。これぞエコ。ごみも出ない。


****

ブログのタイトル変えました。

これぐらい露骨なほうが、自分にプレッシャー与えられていいかもしれない。

気が変わったら変えます、にんげんだもの。
前回の教育と学習 のつづき

前回は、

・教育という言葉の代わりに学習という言葉が幅を利かせ始めたこと

・それによって学習者の主体性に重点が置かれるようになったこと(学習者の地位向上)

・学習者が主体的に教育を選択するという関係性に変化しつつあるということ
(教育というものが消費者(=学習者)と供給者(=教育者)という関係に変化しつつあるのでは?)

みたいなことを書きました。

で、最後にそれには問題があるんじゃないかと書きました。

****

確かに、教育を需要と供給という経済取引としてとらえることは、教育が供給者主導になっていて柔軟性が欠けた場合において、その不均衡を是正するためには利にかなっていると言える。

自分の経験からいえば、高校時代、「なぜ先生を選ぶ権利がないのか」とぶつぶつ文句を言っていたものである。
より根源的には、「なぜ学ぶ必要があるのか」という説明なしに、いろいろな科目を学ばされていたというのも、この不均衡にあたる。
もっと根源的には、義務教育とか、それが義務である時点でもしかしたら不均衡かもしれない。
こういう不均衡に対して不満を抱いたことがない人はおそらくいないだろう。

そして、こういった不均衡に対して、学習者の地位をより向上させ、教育を選択する権利を与えることは、確かに一つの解決策になっている(ように見える)。

しかし、教育を、「学習者が何らかの需要を有し、その需要にこたえるのが教育者の仕事だ」と経済取引風に理解することは本当に可能なのか、そしてそう理解するべきなのだろうか。



経済取引においては、消費者は「自分が何を必要としているのか」ということを知っている、とされている。
じゃあ教育においては?学習者は「自分が何を必要としているのか」を知っていると言えるのだろうか。

この問いに対しては、おそらくその人の持つ価値観によっていろいろと答えが割れるところだろう。
「知っている。学習者の主体性は常に正しい」と答える人もいるだろうし、「中学生まではそれが自分では判断できない。高校生ぐらいになると自分で何が必要か判断できるのではないか」と答える人もいるだろうし、「いくら成長しても、それは自分では理解しきれない。いやいや学ばされるところからスタートしたものの、そのなかで意外にも自分の必要とするものに出会うことが多々ある」と答える人もいるだろう。

皆さんはどうですか。

ちなみに自分は、どちらかというと最後の立場です。

学習者が自分に何が必要なのか判断できないとすると、それを判断するのが教育者の専門知識の発揮しどころだと思うのです。

これは医者に例えるとわかりやすい。

「頭が痛いです。薬をください。」と言ってきた患者に対して、「(寝れば治るんだけどな・・・)はいどうぞ」と薬を渡すのか、「あなた症状には薬は必要ありませんよ、自宅で寝れば治ります」というのかの違い。

前者は患者の主体性を最大限に配慮し、後者は医者が自分の専門的知識に基づいて判断を下している。


学習者が自分に何が必要なのかを理解しきることはできないという前提に立つなら、教育者はその専門的知識を生かして学習者に何が必要なのかを判断し、それを強制する勇気を持たなきゃいけないと思う。

その際、もちろん「なぜそれが必要なのか」を学習者に納得させるアカウンタビリティ(説明責任)は必要だろうけど。
それでも学習者は納得しない場合もある。てかそのほうが多いはずだw俺はそうだったしw

そういうときに、自分の判断を信じ、学習を強制させる勇気があるか。
それは、他人に対して「~すべき」という勇気。
「その部分の多様性は認めませんよ!」という勇気。

学習者の地位が向上したことによって、その勇気を失ってしまった教育者が多いんじゃないだろうか。
“多様性”や“主体性”という言葉の美しさの中で育ってきた僕らには、「べき」を告げる勇気が足りないんじゃないか。

****
最近この話題に深く関連することですが、さいきん多様性尊重のあやしさということをずっと考えています。
授業の内容が全てこれに関連して見えてきたり、飯を食べてる時も風呂に入っている時も頭から離れません。
これは恋ですね。いずれ決着をつけたいです。てか多様性について語る飲み会をしたいです。
いつもは全くレスをもらえませんが、この話題についていろいろな人の意見を聞きたいです。コメントきぼんぬ。