世間的には才能に目を向けるキラキラした教育に注目が集まっているけど。
教育の専門家でもないけど、最底辺の当事者からすると、自分みたいな無能な人にも注目しなければ話は始まらないと思う。
才能がある人をいくら研究しても行き着く先は羨望とか、脳の秘密の解明とか、果てない魅力しかないだろうけど。底辺を研究するってことがどういう意味を持つかってことだよ。
才能の研究をしたら、「どうして才能がない人が存在するか」っていうのも同時になされる問いだから。特異に優秀な人の行き着く先は見えているから。いくらでも尽きない魅力しかないから。
逆に無能な人は、どこに魅力があるのかってこと。
結局、社会の中で有能だと思われる個性の人を探すこととか、お金持ちの人達を教育する私塾みたいな感じの場所しか、民間の発達障害サポート機関って、そういう感じにも見える。
カウンセラーみたいな人の側も、ダイヤの原石を探すことが使命みたいに思っている人もいる。
現に誰もがダイヤの原石ではなくて、全部がダイヤだったら価値はないってこと。砂利の中に金やダイヤがあるから目立つし、稀少だから価値がある。
ダイヤの原石じゃない、ただの砂利レベルの自分みたいな人って、一体どういう風に扱われるのかってことだよ。精神病棟への道しか続いていないし、見えないのが現実。
一向に何の解決も見られないカウンセリングを受けさせられるためだけにも、わざわざ県庁所在地まで行かないといけない。それ自体も、行くまでが相当のストレスでもある。
結局は距離の長さで行ききれなくなって、ドロップアウトする。
田舎では作業所も選べる所は限られるし、偏見もあるし。グーグルマップを見ても田舎がどうなっているか、誰もが分かるはず。
機会は足元に転がってはいないし、凝視しても見つからない。手繰り寄せようにも、あまりにも遠くにしかない。